だいたいは日々のなんでもないお話

日々の記録というか、忘備録。本が好きです。

バイオマス発電できて扇風機

わたしは、再生可能エネルギーのことをこれまでに何度も書いてきた。基本的には、わたしは再生可能エネルギーには大賛成である。

その、再生可能エネルギーの一つに、「バイオマス発電」というものがある。「バイオマス」というのは、化石燃料以外の生物(バイオ)由来の再生可能資源のことで、そういう物を燃やすなどして蒸気などを作り出し、それでタービンを回して発電する発電方法のことである。

再生可能資源を使って発電するので、再生可能エネルギーである。日本には木がいっぱいあるので、建築材として使えないような、たとえば間伐材などを燃やして発電するのが、日本においてのバイオマス発電の主流だろうと、わたしは思っていた。

それはそれで、発電量の確保のために、木を伐りすぎてしまうという問題が起きる可能性があると思うのだが、それよりも、効率最優先のために、わざわざ遠くの熱帯林から燃やすための木材を運ぶというようなことも起きるかもしれないと思うのである。

じっさい、パームヤシの実からパーム油をとった後の「ヤシの殻」を燃料に用いると、油が残っているのでとてもよく燃えて、効率がいいのである。

しかしである、わざわざ東南アジアの熱帯雨林などから燃やすために運んでくるというのは、どうなのであろうか。それで採算が取れて、発電会社が利益を出せるからいいのではないかと思われるかもしれないが、わたしはどうも、それでよしとは考えられない。パームヤシを求めるということは、熱帯雨林の破壊にほかならないし、それを日本まで運ぶためのエネルギー消費だってばかにならないはずである。お金の問題だけではないと思うのである。

 

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バイオマス発電できて扇風機」

「噴水のモーター回すバイオマス電気」

「木を燃やしバイオマスです冷房は」

「炎天にバイオマス燃す発電所

雲が出てソーラパネルも昼寝かな

最近、「メガソーラー」と言う言葉がメディアによく出てきている気がする。大規模太陽光発電のことである。太陽光発電といえば、再生可能エネルギー(太陽光・風力・地熱・中小水力・バイオマスなど)であるからして、エスディジーズ=持続可能な開発目標(SDGs:Sustainable Development Goals)の推進にとっての強力な手段の一つというわけである。石炭などを燃やしての、二酸化炭素の排出をともなうような火力発電などに変わる発電手段として、このところどんどん増えているとのことである。

もちろん、わたしとしても、このような再生可能エネルギーには大いに賛成である。

しかし、しかしである。このソーラパネルでたくさんの電気をつくるためには、広大な設置場所が必要となるのだ。となるとどこに設置されるのかというと、土地の値段が安いところということになるのであろう。そして、それは日本においては、山ということになる。人がすむのに適合している土地は高いが、人が住むのに適していない山は価格が安いのである。まあ、それはそうであろう。

しかし、再生可能エネルギーのためとはいえ、だからといってどこにでも作っていいものではないと、わたしは思うのである。山の中にソーラパネルを設置するためには、太陽の光をパネルに当てないといけないわけであるから、当然、木は邪魔である。だからソーラパネルを設置する山は、丸裸にされる。であるからして、やはり、作る場所はちゃんと吟味してもらわねばならないと思うのである。

そうでなければ、ソーラパネルのために伐り開かれた山の保水力が低下した結果として、大雨による土石流などが起こる可能性があると思うのである。そうならないような対策をきちんとしたり、そういう心配のないようなところでなければ作ってはいけないとしなければならないのではないだろうかと思うのである。

 

このメガソーラ問題については、わたしは以前にも取り上げたのであるが、これからも大きな問題となりそうな予感がするので、再度書いた。今後もこの問題については気をつけていたいと思う。

 

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雲が出てソーラパネルも昼寝かな
山伐りてソーラパネル日焼けかな
炎天に照らさるるメガソーラかな
炎天を無音で食べて電気湧く
炎天の光ぶつかり電気生まる
頼もしき梅雨の水力SDCs
沢蟹も生き場失う土石流
土の中環境悪化で若葉流る

 

 

 

 

コロナ禍に発酵食あり打ち水や

わたしは、きょう、人生で初めて「マグロ納豆」というものを食べた。

わたしは、発酵食品はだいたい好きなのである。ぬか漬けも、キムチも、味噌も、ヨーグルトも、チーズももちろん大好きである。日本酒もワインも好きであるがこれはちょっと違うのかな。ところが、納豆だけは、こどものころにお目にかかったことがないせいであると思うのであるが、だめなのであった。いわゆる食わず嫌いというやつである。

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それなのに、どうして今頃になって食べているのかというとである、新型コロナのせいなのである。おかげであると言ったほうがいいのかな。

じつは、自然農(?)を実践している方のブログで、「発酵食はウイルスに強い」というような仮説の書き込みを読んだからなのである。まあひょっとしたら、わたしが勝手にそのように読んでしまったというだけのことなのかもしれないのではあるが、 なんとなく納得してしまったのである。そこで、早速実践というわけで、これまでほとんど拒否してきた「納豆」を突然食べ始めたというわけである。

その「納豆などの発酵食ウイルス撃退仮説」というのは、わたしが受けとった理解はこうである。「世界の国ぐにの、新型コロナウイルスでの死亡率が高い国とそうでもない国というのがかなりはっきりと別れているが、そうでもない国は、ほぼ発酵食を食べている人の多い国である」という仮説である。しかし、わたしはそのブログを読んで詳細を調べたわけではないので、ひょっとしたら全然的はずれな仮説である可能性もあるのではあるが、基本的に発酵食の好きなわたしであるので、ついつい飛びついてしまったというわけである。うーむ、なんとなくアメリカやブラジルやイタリア、イギリスなんかには、発酵食が、チーズくらいしかないような気がするので、というくらいの根拠でしかないのではあるが。そういえば、それならば日本の県別の新型コロナでの死亡率が高いのはどこなのであろうか。それと納豆食の普及率の関係はどうなのであろうか。調べてみたことはないのであるが、気になるなあ。

 

まあ、そんなわけで、仮説が万一的はずれであったとしても、納豆やキムチを食べすぎて体を壊すなんてことにはならないであろうし、なんたってわたしは発酵食品が好きなのであるから、まあいいではないかというわけで、この仮説に乗っかることにしたというわけである。

それで、よし、いままで以上に、ぬか漬けを食べるぞ! キムチだっていっぱい食べてやる! キムチチャーハンも大好きだし〜! と決意していて、ふと、ということは納豆だって効くのではないか? と思い至ってしまったのである。となると、いよいよわたしも、そろそろ納豆というものを食べられるようにならないといけないのではないのだろうかと思ってしまったのである。もともと納豆が好きな人にはこの気持ちはわかっていただけないかもしれないと思うのであるが、けっこう決心するには力が必要なのである。今回その力は、新型コロナウイルスに負けたくないという気持ちであった。だから、コロナのおかげといえばおかげなのである。

 

そういうわけで、いまやわたしは、納豆をしっかりと食べる人間になってしまったのである。納豆にはしっかりとネギや辛子をまぜて、できることならば卵なんかも入れて、醤油もしっかりとかけて、そうしてしっかりとまぜてまぜて食べているのである。食べてみるとなんと食べられるのであった。においはいまでもちょっと苦手ではあるが、それもそのうち慣れるに違いないと思う。なんといっても、人間は慣れる動物であるのであるから。

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もっとも、わたしが本日、はじめて食した「マグロ納豆」に関していえば、そんなに美味しいとは思えなかったのである。納豆と一緒に食べたからといって、マグロがマグロだけを食べたときよりも美味しくなったとは思えなかったのである。ちょっと残念であった。ひょっとしたらわたしの食べ方がまずかったのかもしれないのであるが、納豆は、わたしは、やはり、ご飯にかけて食べるのが美味しいような気がする。

といってもまだまだ納豆初心者の感想にすぎないのである。これからも納豆をいっぱい食べて、納豆の美味しい食べ方も研究しつつ、新型コロナウイルスも撃退できるのであるとしたら、こんなにうれしいことはないのである、と思うのであった。

 

「発酵の鮒ずし食しコロナ禍や」

「コロナ禍や発酵茄子漬効き目あり」

「発酵食ウイルス死して干し草や」

「コロナ禍や発酵食に冷酒あり」

「コロナ禍や麦飯には納豆かな」

「コロナ禍に発酵のちから茄子漬や」

「コロナ禍に発酵食あり打ち水や」

夏の空クマのプーさん浮かんでる

最近、知人に教えられて、ベンジャミン・ホフ『タオのプーさん』(平河出版社、1989年2月)を読みはじめた。

どういう本かというと、カバー袖にはこう書かれている。

「タオってなんだろ?

くまのプーさんと仲間の動物たちが登場し、

著者といっしょに考えて?!いく。

クマのプーさんをとおして

タオイズの原理をやさしく説明し、

タオイズムの原理をとおして

クマのプーさんを解釈した

ユニークな物語。」

 

というわけで、A.A.ミルンの『クマのプーさん』を引用しながら「タオ」の思想(?)を解説していると思われる本であると思う。まだ全部読み終えていないので断言はできかねるのであるが。

この『クマのプーさん』というのは、ぬいぐるみのくまさんが主人公の子ども向けの読み物で、わたしもその名はよく知っていたし、絵もいろんな機会に見たことがあったので、なんとなくそのお話しの中身も知っているものとばかり思っていた。

 

 

ところが、この『タオのプーさん』を読み進めていくうちに、どうやらわたしは『クマのプーさん』の物語をちゃんと読んだことがないのではないだろうかということに気がついた。これではいけないと思い、『タオのプーさん』を読むのを途中でやめて、本家本元(?)の『クマのプーさん』を読むことにしたというわけである。

なので、いま、わたしは、ミルンの『クマのプーさん』を一生懸命読んでいるところである。で、これがけっこう面白いのである。じつにとぼけた登場人物というか、登場動物たちのオンパレードで、とっても楽しくお話が展開していくのである。クマのプーさんがときどき詩を披露したりもするのであるが、その詩がまたわけが分からなくて楽しい。

 

さて、この『クマのプーさん』と『タオのプーさん』のつながりはどうなっているのか。それはわたしにとって、今後の課題である。『クマのプーさん』を読み終えたら、中断している『タオのプーさん』を読みはじめなくては。

 

ところで、今週のお題が「住みたい場所、教えてください」である事に気がついた。

いまわたしが住みたいところは、もちろん、クマのプーさんが住んでいる森である。百町森のプー横丁かな。

 

「夏の空クマのプーさん浮かんでる」

「せっかくの夏至に雨降りクマのプーさん

「夏木立コマのプーさん昼寝中」

「夏の日もクマのプーさん歌つくる」

「コロナ禍やクマのプーさんどこに行く」

「森暑しクマのプーさん迷子なり」

 

 

今週のお題「住みたい場所」

 

 

 

 

 

 

 

緑陰や連泊限定宿屋あり

わたしの知人に、民宿ではないような気がするのだが、宿を経営している人がいる。なんと言ったらいいのであろうか、別荘のような建物を一組の人の宿泊に提供しているのである。旅館経営と言っていいのかな。

 

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もう何年も前から経営しているのであるが、最初は、ふつうの宿のように、泊めるだけでなく朝食などを提供していたのである。が、そのお世話がけっこう大変だったようで、しばらくしてからは食事の提供をやめたそうである。宿泊のみの宿にしたのだそうだ。

それで客はどうなったかというと、コロナ禍のせいもあるのかもしれないが、若者グループがやってきて、一晩どんちゃん騒ぎをして、翌日帰るというお客さんが増えたそうである。

 

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これは困ったというわけで、なにか対策を考えなくてはならなくなったとのことである。うーむ、こういう場合、どういう対策がいいのであろうか。

客を家族限定にするとか、人数を4人くらいに制限するとか、予約を受けるときに、人数と年齢を聞いてから場合によっては断るとか、うーんどうしたらいいのであろうか。わたしには、こんなことくらいしか思い浮かばない。

 

さて、そこでわたしの知人がとった対策はというと、「宿泊を2泊以上に設定する」というものであった。

そうしたところ、どんちゃん騒ぎ目的の客はピタリと止んだとのことである。うーん、わたしには思いもつかなかった方策である。そういう限定を付けることによって、自然のなかで静かにゆったりと過ごすことを目的として訪れるお客さんばかりが来てくれるようになったというわけである。

これはなかなか素晴らしい方策であると思った。こんな、「2泊以上すること」という条件の宿を、わたしはこれ以外には聞いたことがないのであるが、どうなのであろう。他にもそんな宿があるのであろうか。

 

「緑陰や連泊限定宿屋あり」

「連泊の静けし客や麦茶飲む」

「夏の夜ゆったり過ごす山の宿」

「宿泊は二泊以上で避暑の宿」

「一泊はお断りなり避暑の宿」

「緑陰の静けし宿に二泊する」

「二泊以上したくなる宿風薫る」

「風薫る森の別荘連泊す」

風が吹く夫婦別姓白南風や

わたしが若い頃には考えられなかったことだが、いまや、ネット上に上がっていないものはない、というか、「ネット検索で引っかからないものはこの世に存在していないに等しい」らしい。「いや、ネット検索しても引っかからないものって、いっぱいあるだろう」と、わたしなどは思ってしまうのだが、そんな考えはもはや古いのだろうか。

わたしは、ネット検索に引っかからないから、それは存在しない、というのはちょっとどうかと思うのだけれど、それはおいておくとしても、検索に引っかけるためには、とりあえず名前は必要かと思う。となると、名前のないものはこの世に存在しないといえるのだろうか。

 

さて、少し前の『東京新聞』(2021年3月20日朝刊)の「筆洗」に、こんな記事が書かれていた。

「……台湾発のニュースによると、回転ずしチェーン店「スシロー」が台湾で、サケを意味する「鮭魚」という字が名前にある人を対象に、「無料食べ放題」のキャンペーンを実施したところ、少なくとも百三十五人が改名した▼三回まで改名できる台湾の仕組みが大きいようで、すぐに元の名前に戻す人もいたという。……」

 

www.tokyo-np.co.jp

 

これはまたすごい、とわたしは思ってしまった。寿司の無料食べ放題のために名前を変えるなんて。これは、日本ではまず起こらない事態であろうと思う。というか、日本では簡単に名前を変えられなかったと思うから、やりたくてもできないことになるのかな。まあこの制度的制約を考えないと仮定してみても、やはり日本では、だれもお寿司のために改名をする人はいないような気がするのである。

それは、夫婦別姓がなかなか認められない日本をみていると、なんとなく同じ問題のような気がするのである。名前に対するこだわりが強すぎるといってもいいかも知れないと思う。わたしはどちらかというと、名前というものに対するこだわりが少ないほうだと思う。だから、結婚してもそれまでの自分の姓を名乗りたい人はそうすればいいと思う。わたしは、結婚と、姓を同じにすることとは別のことだろうと思うのである。

最近は離婚も増えていることだし、したがって再婚も増えるわけだろうから、そのたびにいちいち姓を変えていたのでは、本人はもちろんであるが、周りの人もその人をどう呼んでいいのかわからなくなったりすることもあって、とっても不便であると思う。もちろん、結婚を機に姓を変えたい人は変えればよいと思う。でも、変えないという選択肢もあるべきと思うのである。まあ、ひとつの家の玄関に表札を2つかけないといけなくなるので、それはちょっと手間だが、それくらいはまあいいではないかと思う。

考えてみると、ちょっと昔には、成長にしたがって名前を変えていたみたいであるし、通常の生活では本名ではなくペンネームのようなものを使っていた人が結構いたのではなかったのだろうか。

なにも台湾のように、3回は名前を変えてもいいというふうになってほしいとまでは思わないが、自分の名前を自分の好きなように名乗ることがもっと気軽にできてもいいのではないだろうか、と思ったりもするのである。自分の名前を自分でつけてもいいとなると、けっこう楽しいのではないだろうか。どう名付けるかということによってその人となりが推測できたりもしそうだし、なんだか楽しいことになりそうな気がしてきた。

 

 

「風が吹く夫婦別姓白南風や」
「結婚で改姓しろと土用波」
「帰省して気持ちと名字戻るかな」
「姓を変え人も変わるか更衣」
「更衣名前も中身も同じ人」
「夏休み自分で付ける自分の名」

風呂敷でコロナ包んで暑気払い

わたしは、水をはじく、いわば防水機能のある風呂敷というものの存在を知って、風呂敷をよく使うようになったという話を、先日、書いた。

では、わたしが実際に使っている風呂敷とは、どんなものをどんなふうに使っているかということを書いておきたいと思う。

風呂敷の大きさはいろいろあるのであるが、よく見かける風呂敷は、1辺の長さが70センチメートルくらいのものが多いと思う。広げたときの面積は、4900平方センチメートルである。ちなみに、ハンカチーフは、男用だとだいたい1辺45センチメートルであろう。広げたときの面積はだいたい2000平方センチメートルになる。

さて、わたしがよく使って重宝している風呂敷は、1辺が100センチメートルの大きさである。そう、1メートル四方の大きさである。よくある風呂敷よりも1辺が30センチメートル長いだけなのであるが、広げると、10000平方センチメートルの面積があるのである。面積はほぼ倍の大きさである。ふたりくらいだったら、ピクニックマットとしても十分に使えそうな大きさである。

じつを言うと、この風呂敷を買ったお店の人にこの大きさの風呂敷を勧められたときは、これはいくらなんでも大きすぎるのではないかなあ、と思ったものである。しかし、その防水機能を生かして、突然の雨のときにカッパ代わりに使用するとしたら、これくらいの大きさのほうがいいかも知れないなあと考えて、お店の人のお勧めの1辺100センチメートルの風呂敷を買ったのであった。

この大きさは、わたしにとっては正解であった。ちょうどいい大きさであったと思う。1辺70センチメートルのよくある大きさの風呂敷ももっているのであるが、一番良く使うのはやはりこの1辺100センチメートルのほうの風呂敷である。バッグ風に結んで使うとこんな絵に描いたような感じになるのである。エコバッグのちょっと大きめなものと同じような感じである。じっさい、わたしは買い物に行くときは、エコバッグとしてこの風呂敷をいつも使っているのであるが、少々買いすぎたかなと思うくらい多めに買い物をしたときでも、この大きさがあれば、買ったものが入り切らないということはほぼない。じつに便利である。

 

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「風呂敷でコロナ包んで暑気払い」

「風呂敷に包まれしわれ夕立に」

「風呂敷はエコバックなりキャベツ入れ」

「風呂敷に胡瓜はみだすエコバッグ」

「汗かいて風呂敷かぶる空青し」

「風呂敷が役に立つかなキャンプ場」

「帰省して風呂敷のある実家かな」

「夕立に水も通さぬ大風呂敷」

「大風呂敷広げてみてもさくらんぼ」

「入れるより包むのがよしメロンかな」

「風呂敷に丸く包まれメロンかな」

「風呂敷に水着包んで夏包む」

「古カフェに風呂敷もってラムネ飲む」

「防水の風呂敷もって海水浴」

「風呂敷に金魚包んで水漏れず」