だいたいは日々のなんでもないお話

日々の記録というか、忘備録。本が好きです。

風呂敷が水をはじいて夕立や

わたしは、風呂敷が好きである。

わたしが子どもの時代には、身の回りでけっこう風呂敷が使われていたと思う。お客さんが来たときなども、手土産のお菓子は風呂敷に包まれていたように記憶している。布団を包むのも、大きな風呂敷だったような気がする。

それが、服装から和風が消えるのとほぼ同じくして、風呂敷が使われることもどんどんなくなっていったような気がする。わたし自身も若いころは風呂敷にはほとんどお目にかかっていないし、もちろん自分で使うということもほぼなかったと思う。

それなのになぜ今ごろになって風呂敷が好きになったかというと、こんな風呂敷があることを知ったからである。

 

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「アクアドロップ」という、防水性能のある風呂敷である。この風呂敷の存在を、わたしがはじめて知ったときは、驚いた。

まあ、考えてみると、カッパとか、アウトドアの服には防水機能のついた服があるし、じっさいわたしも随分以前からそういうアウトドアのジャンパーを使っていて、ちょっとくらいの雨なら平気なので、とても重宝していて、気に入っているのであった。そう、いまもコートとして使っているのであった。

しかししかし、これは風呂敷なのである。最初はちょっと、風呂敷を防水にしてどうしようっていうんだ、と思わないでもなかったが、だがしかしこういう新しい機能のようなものが好きなのであった、わたしは。だから、まずは買ってみた。そうして、じっさいに使ってみると、なかなか楽しかったのである。

まずは、ふつうの風呂敷とちがって、濡れたものを包んでも平気である。たとえば、冷たいペットボトルとか、使ったあとの折りたたみ傘とか、汗でびしょ濡れになったTシャツとか、タオルなどなど。風呂敷といえばこのように物を包むのに使うのがまあ通常の使用方法である。

が、この防水風呂敷はもっといろいろなことにも使えるのである。まずは、傘代わりとして頭上にかざせば、突然の雨にも平気である。傘の代わりだけでなく、濡らしたくないカバンをカバーすることにも使える。濡れたところでの敷物としても使える。

そしてまだある。袋状に結んで使えば、バケツの役割を果たすことができる。そう、水が汲めるのである。災害時に役立ちそうである。

そしてそして、風呂敷なのであるからして、とうぜん、折りたためば小さくなるし、軽い。これはもう、いつもカバンの中に潜ませていたいではないか。じっさい、わたしはそうしている。

そして、いつも持ち歩いていると、いま書いてきたように濡れたものを包んだりするときだけでなく、エコバッグとしてもその力を発揮してくれるのである。じつは、わたしがカバンの中に潜ませている風呂敷は、このエコバッグとしての出番がいちばん多いような気がする。

エコバッグとしてしか使いみちのないエコバッグなんかよりも、わたしは絶対この防水風呂敷のほうが便利この上ない、と思うのである。

 

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「風呂敷が水をはじいて夕立や」

「夕立や風呂敷かぶり走り行く」

「防水の風呂敷ありや夏の雨」

「撥水の風呂敷ありや水着入れ」

想像のアファンの森や夏木立

わたしは、少し前に、コナラの苗木を買ってきたという話を書いた。

高さはまだ50センチメートルくらいの赤ちゃんである。でも葉っぱはしっかりコナラの葉っぱであると思う。成長をたのしみに、毎日のように見たり触れたりしている。が、もちろん一日でそんなに伸びるわけはないのであるから、ほとんど高さは変化していない。それでもなんだか見たり触れたりすると、気持ちが落ち着くのである。なぜだろうか。

 

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〔これはコナラの大木〕

 

そんなふうに、小さいながらもちゃんとコナラである木を見ながら、大きなコナラなどの木のある森に行きたいなあと、思っているのである。

 

わたしが、まだ行ったことがなくて、行きたいと願っている森がある。

それは、長野県の黒姫にある、「アファンの森」である。残念ながら、少し前に亡くなられてしまったのだが、C.W.ニコルさんという作家が、数十年前に荒れ果てた森を買い取って、美しい森に育てたという森である。

テレビで、この森の紹介をした番組を見たことはあるのだが、やはりじっさいにその森の中に入って、自分のからだ全体で森を感じてみたいと思うのだ。きっと、すごく気持ちが良いに違いない。なんだかわたしは、そのことを頭のなかで想像してみるだけで、もはや気持ちが良くなっているような気がするのである。ほんとに、なんというか、自分でいうのもなんであるのだが、幸せな人間である。

 

afan.or.jp

 

さて、わたしの住んでいる東京の森といえば、奥多摩である。わたしは、何度も奥多摩の森の中を歩いたことはあるのだが、奥多摩の森はスギやヒノキなどの人工林が多いのである。できることならば、歩いても歩いても、延々と続く豊かな広葉樹などの茂る天然の森のなかを歩いてみたいのである。これは、贅沢な願いなのだろうか。いや、わたしは、森の国である日本に住んでいるのであるから、この願いはそんなに贅沢とはいえないと思うのであるがどうなのであろうか。

まあいまのところは、わたしも、苗木とはいえコナラなどの広葉樹を愛でつつ気持ちを癒やし、できることならば長野の黒姫まで行きたいものである。

 

「想像のアファンの森や夏木立」

「主往きてアファンの森蛍狩り」

「アファンの森身も心も森林浴」

「森林浴身を通り抜く木の香り」

「ハンモックアファンの森で身体浮く」

「森林浴アファンの森や心浮く」

「黒姫にあるという森ハンモック」

 

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今週のお題「575」

 

動く物皆生かされて万緑や

わたしは最近、植物のことを想っていることが多いのである。といっても、コロナ禍で出歩けなくて、わたしが植物になったような気がする、とかいうわけではない。

環境問題に関心が大いにあるということが大きな理由かも知れないとも思う。が、それは置いておいても、とにかく植物がいなければ、人間というか、動物は生きていけないのだから、みんなもっと植物に感謝しようよと声を大にして言いたいのである。生物が生きるための、食べるものを生み出せるのは植物だけなのだ。

植物は、なんと太陽の光から生物が生きていくのになくてはならない炭水化物を創り出せるのである。光合成という働きである。こんなことは動物にはできない。だから、動物は植物を食べることによってしか生きられない。肉食の動物であっても、その動物が食べている動物が、植物なしでは生きていけないのであるから、間接的にやっぱり植物なしには生きてゆけないのである。

 

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地球の歴史を見てみても、46億年前に地球ができ、やがて、おそらく海の底に微生物が命として発生した後、まずは植物がうまれた。そしてその後、動物が生まれたにちがいない。そして海から陸上に進出するときも、まずは植物が上陸して、繁茂して、動物が住める環境を作ってくれたあとに、ようやく動物が陸上に上がってきたと考えられているのである。そう、人間がいまこうして生きているのは、みんな植物が地球を、動物が住める環境に変えてくれたおかげなのである。

それなのにそれなのに、いまや動物というか、動物のなかのただの一種である人間は、その恩人である植物をどんどん切り倒したり、焼き払っているというではないか。

それはちょっとまずいのではないだろうかと思うのである。だから、みんなもうちょっと、植物のことを想おうよ、とそんなわけで、わたしは叫びたいのである。もっともっと自然を大事にしようよ。

 

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「動く物皆生かされて万緑や」

「青芝や酸素茫々生み出して」

「万緑を思えば生きる思い湧き」

「新緑や光合成に精を出し」

「草茂る山川草木人もいて」

「トマト食べ太陽と水空気土」

「緑陰に深呼吸してすがすがし」

「山にいて青葉の先に酸素かな」

「植物は動物の生のもとなり」

「雨降りて木々茂るかな生命の樹

「夏の山青々として上を向く」

「植物を思わざる無し草いきれ

「植物を想えとバナナが命じた」

「動かずに茂るは動く植物や」

 

今週のお題「575」

 

 

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「蟻食べてツキノワグマは命あり」『人はクマと友だちになれるか?』の紹介

わたしは、きょうは、最近読んだ本の紹介をしようと思う。その本とは、これである。「イワサキ・ライブラリー」という子ども向けのシリーズの1冊である。漢字にはルビが付いている。

 

『人はクマと友だちになれるか?』

太田京子、岩崎書店、2004年7月。
 
「人はクマと友だちになれるか?」と問いかけられたらいったいどう答えたらいいのだろうか? クマは、犬や猫と違って、ペットではないのだから、それは無理だろうと、わたしは思うのだが、友だちとまでは行かなくとも、共存はしたいと思う。
地球に生きるもの、いや、あるものと言ってもいいかも知れないが、できることならばすべてのものが共存し続けられるといいなあと思っている。
 
子どものときからなぜかクマのことが気になってし方がない著者は、大人になってからもその気持ちが消えず、とうとう東北や山陰まで出かけていって、クマについての話を聞いてきたそうである。
 
「研究者たちは、〈クマをつかまえて、このままどんどん殺していたら、クマは近い将来いなくなってしまうだろう〉といい、クマの被害を受けた地元に人たちからは、〈クマを殺さないで、どうつきあえばいいのかわからない〉というような意見がたくさん出されました。
 人間とクマは、おたがいに傷つけないで、暮らせないものなのでしょうか? 人間はクマと友だちにはなれないのでしょうか?」
 
そして、2001年のこと、著者は、長野県でツキノワグマの調査や保護管理をおこなっている「ピッキオ」という団体があることを知り、取材を始めたのだそうだ。
本書はその取材の話が中心になっている。
 
軽井沢では、1996年ころから、野生のツキノワグマが夜間にたびたびあらわれて、ゴミ集積所や家のそばに置かれたコンポストで、ゴミをあさるようになったということである。人間にとってはゴミである生ゴミは、野生のクマにとっては簡単に手に入るおいしい食べ物だったというわけである。一度その味を覚えてしまったクマは、ごみがある限り何度もやってくるようになったということだ。そしてその「あそこにおいしい食べ物がある」という情報は親から子へと伝わる。
そこで、ピッキオは、ゴミ箱を、クマに開けられないような頑丈なものにすることや、ゴミの集積所を見回ったりするということわ始めている。クマが集積所に来てもゴミが食べられなければ、もうそこには来なくなるというのだ。
ゴミ問題だけでなく、なぜかはわからなくとも人家の近くに出てきてしまったクマは、近所の人が怖がるので、捕獲して、熊撃退スプレーや空砲などを使って怖がらせてから山に放つという、学習放獣というものをしているのだ。
 
もちろん長野のピッキオの試みだけでなく、他のところでもおなじように、クマが奥山から出てきて人家の近くに来ることがないようにしようという試みをしている人がいる。
たとえば、北海道の知床にはヒグマがいるのだが、そこでは観光客向けに、「鈴などの音で、クマに自分の居場所を知らせる。クマへ食べものを与えない。クマがいても近寄らない。ゴミは捨てないで持ちかえる」ということを呼びかけて、ヒグマとの共存を目指している。
また、宮城県には、「ツキノワグマと棲処の森を守る会」という活動をしている人がいるとのことである。「クマの畑」を作っているというのだ。山の実りが少ない夏にクマが食べてもいいようにデントコーンの畑を作ったそうだ。
また、東京の奥多摩でもこんな活動がされていた。クマをひきつける柿の実を都会の人にもいでもらって、ついでにクマのことも考えてもらおうと、「こまっています。もいでください!」のフレーズで、柿の実をもいで干し柿を作るイベントを計画し、大反響があったとのことである。2002年とその翌年も実施したようである。

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こんなふうに、人里に出てくるクマを、ただ危ないからと言って捕まえて殺すだけでなく、なんとか、人里に出てこないようにして、人とクマが共存できる社会を作ろうとしている人達がいるということが、本書を読むとよく分かる。本書が書かれたのは、いまから20年前ではあるが、長野のピッキオのように、いまもなお続いている活動なのである。著者と同じ願いを持つ人にはぜひとも読んでいただきたい本である。
そして、わたしたちの住む日本の森の中にひっそりと生きているクマなどの動物のことを、ときに思い出して、その瞬間にも同じ空の下に確かに生きているクマたちのことを想像できる人間でいたいと、わたしは思う。そして、そういう人がわたしのまわりに一人でもふえてほしいと願っているのである
 
 
「蟻食べてツキノワグマは命あり」
「木の実たちツキノワグマの好きなもの」
「夏の山クマの気配や徐々に」
「クマの手が岩突いて蟻大量に」
「夏山に餌少なくてクマ惑う」
「夏山や食べもの枯れてクマ歩く」
「クマ歩く夏山に食べものありや」
「木に実なく夏の山クマ生き辛き」
 
 

今週のお題「575」

コロナ禍に昼に営業夜店かな

先日のことである。わたしが、お昼ごはんを食べようと思って、どこのお店にしようかなと、きょろきょろとしながら歩いていたところ、いつもはこんな昼の時刻には空いていない、小さな店に暖簾がかかっていた。そう、営業しているのである。あれ、どうしたんだろうと、不思議に思って店の前に行ってみた。確かに営業していることを確認した。

この店は、営業時間は夜のみで、午後7時ころから、夜中の2時か3時ころまで営業しているお店だったのだ。だから、なかなか行く機会がなくて、昼にもやってくれるといいのになあ、などと思っていたのである。

そうか、東京都はコロナ禍の緊急事態宣言で、飲食店の営業時間は午後8時までという要請を出していたんだった。そんな時刻は、この店にとっては閉店どころか、開店時刻である。それで、しかたなく営業時刻の変更をして、昼に開店することにしたに違いない。

店長さんは嫌だっただろうが、わたしとしてはちょっとうれしい出来ごとであった。

もちろん、さっそく、わたしは店に入って、お昼を済ませることができた。めでたしめでたしであった。

 

もっとも、ほんとうは、やっぱり夜にゆっくりと店に行って、ビールなど飲みながら美味しく食べたいというのが、願いであるのであった。

早くその時がきますように。

 

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「コロナ禍に昼に営業夜店かな」

「夏の夜開けられなくて昼に開け」

「夜の店コロナ禍には昼営業」

空豆でお茶を飲む夜コロナ禍や」

「初鰹飲んで食べたやコロナ禍に」

「夜でなく昼に穴子かコロナ禍や」

「夜ならば蟻も踏まれずコロナ禍や」

 

緊急事態宣言片かげり

わたしは、最近、電車に乗ってお出かけをして、数人の友人と会って、久しぶりに楽しいお話をする機会をもった。久しぶりのことで、なんだかとても元気をもらえたような気がしている。直接会って、表情をみながら会話することの大切さをしみじみと感じたのであった。いやあ、ほんとに楽しかった。人間、やっぱり、触れ合うことはやめられないのだなあと、思う。

そういえばその日、わたしは、東京都内を電車に乗って出かけたのであるが、途中の電車の中も、歩いた道すがらも、なんだかふつうに人がたくさんいたような記憶がある。うーむ、そういうこともあってか、わたしは、東京都には緊急事態宣言が出ている最中であることを、この日、一日はすっかり忘れていたことにいまさら気がついた。と言っても、もちろんマスクはしていたのであるけれど。あんまり楽しかったので、忘れてしまったというべきかも知れない。とにかく、楽しいひと時をもつことができて、ほんとうによかった。

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「緊急事態宣言片かげり」
「緊急事態宣言夏の蝶」
「緊急事態宣言蝉騒ぐ」

コロナ禍を離れる一夜夏芝居

わたしは、最近、芝居を見に行ってきた。満席だった。といっても、もちろんぎゅうぎゅう詰めというわけではなくて、三分の一くらいの席はもともと空けているようだった。

わたしが芝居を見に行くのはもちろんかなり久しぶりであったのだが、演じる役者さんもかなり久しぶりに舞台に立ったようであった。演じる方も、見る方も、共にとても幸せな時間を過ごすことができたと思うのである。観に行ってほんとに良かったと思った。

このような楽しみごとが世の中から消えてしまうかも知れないと思う日々が、もう1年も続いているのである。このままでは、生きる喜びのないままに過ごす時間ばかりがどんどんふえていくことになってしまうのではないだろうか。それはいけない、絶対によくないと、わたしは思うのである。

だって、楽しい時間こそ、生きている時間なのではないだろうか。いっぱい楽しい時間をすごしたならば、そうではないときにだって、楽しかったときの記憶を思い出せば、楽しい気持ちになれるではないか。

だから、コロナ禍ではあっても、なんとか工夫をしたりして、オンラインなどを活用したりして、楽しみごとをなくさないようにしたいと思うのである。人として生きるために。

それは、芝居であってもいいし、映画であってももちろんいいし、絵画展を見に行くことでもいい。人によっては、デパートでの買い物かもしれない。旅行だという人もいるであろう。人数を制限しての講演会や、セミナーという楽しみもあるかも知れない。そういえば、オンライン飲み会というのもひところは流行ったようであったが、最近はどうなのであろうか。リアルな飲み会はまだしばらくは、東京都ではできそうにないのはとても残念である。が、まあ少人数での飲食店での飲みは、まもなく復活するであろう。これは、飲みに行く人にとってももちろん吉報であるが、飲食店の人にとってもすごく喜ばしいことであろう。

そうして、少しずつでもいつもの暮らしに戻っていけることを望んでいる。この1年間の喪失が、とくに若い人たちにとって取り返しのつかない時間にならなければいいのだが。

 

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「コロナ禍を離れる一夜夏芝居」

「密を避け芝居楽しむ夏の夜」

「コロナ禍に芝居する人汗飛ばし」

「コロナ禍に芝居観る人汗拭きて」

「コロナ禍に舞台に見入る夏の夜」

「夏の夜楽しめなくてコロナ禍や」

「コロナ禍に蓋する一夜夏芝居」