だいたいは日々のなんでもないお話

日々の記録というか、忘備録。本が好きです。

塀のなか大木の根は外にあり

高級住宅街を通ると、だいたいは高い塀が続いている。だからして、歩いていてもずっと塀を眺めることになるので、あまり楽しくはない。まあその塀の上からは木々や花などが顔をのぞかせていることもあるが、人の目の高さには延々と塀しか見えない。

散歩はだからして、わたしは、高級でない住宅街を歩く方がだんぜん楽しい。なんとなれば、目の高さに見えているものが、生け垣だったり、道路際に鉢植えがいっぱい並んでいたり、家の造作だったりしているからである。

高級住宅街の高い塀は、まあ泥棒や不審者の侵入を防ぐためなのであろう。家の中にたくさんのお金や高価な宝石や家具などなどがあるとやはりこうなるのであろうと思われる。わたしはこういう塀族には属さない庶民族であるので、実際のところの理由は知らないのであるが、まあ間違ってはいないであろう。

ところで、こういう高い塀に囲まれている家に住んでいる人は、他人に外から見られたり簡単に入っていけないのと引き換えに、縁側に座ってぼんやりと道行く人を眺めたり、近所の人が通りかかって、お互いにあいさつをするなんてことはできないのである。家の中と外が断絶しているのである。つながっていないのである。

欧州の街の映像などをテレビで見ることがあるが、カフェでは、たいてい道に向かってオープンな場所に机と椅子があって、そこで、道行く人々を眺めながらぼんやりとコーヒーなどを飲んでいる光景がある。それはカフェでももちろん構わないのであるが、塀のない家であるならば、自宅の縁側でもおなじように、この楽しみを味わえるのである。これはかなり素晴らしいことなのではないだろうかと、わたしは思っている。

 

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しかし塀族の皆さんは、そういう楽しみを味わったことがないんだろうなあ。それで、わざわざ町中まででかけてゆき、お金を払ってカフェに入って、道行く人びとを眺めるのであろう。

 

 

「塀のなか大木の根は外にあり」
「黄落や塀のなかにも外にも落つ」
「屏通り空見上げれば同じ月」
「紅葉の上だけ見せる塀の中
「塀の街ものはいっぱい人はなし」
「虫の声塀の中なら黄金虫」
「秋深しビールにするか熱燗か」
「待ちかねてあわてて注文新酒かな」
211027「秋の昼緊急事態開けて呑む」「月満ちて緊急事態開けて呑む」「空澄みて緊急事態開けて呑む」「おあずけの新酒ようやく呑めにけり」「ひさびさのお酒の甘き秋惜しむ」「秋惜しむお酒一本の声はずみ」

おあずけの新酒ようやく呑めにけり

東京都のコロナ禍による緊急事態宣言が解除された。そして、禁じられていた飲食店でのお酒の提供が、可能になった。

わたしは以前、「アルコールが消えた」というタイトルで、わたしがお昼を食べるためによく行く食堂でアルコールの提供がなくなった話を書いた。ある人々にとっては、ささやかな楽しみを奪われたのである。

 

kwsk.hatenablog.jp

 

で、緊急事態宣言が解除されたことによって、その食堂でもお酒が無事に飲めるようになったわけである。めでたしめでたしである。

ところで、この食堂はなぜかお昼どきに、ビールや焼酎や日本酒を飲みながらお昼を食べているお客さんが、結構いるのである。しかも緊急事態宣言中に飲めなかったものだから、なんだかいまは以前よりも飲んでいるお客さんが増えているように思うのだ。みなさん、やっぱり結構我慢を強いられていたのである。その反動であろう。

先日、カウンター席に座っていたわたしの隣りに来たお客さんは、初老の男性であったが、座るか座らないかのうちに、水を運んできた店員さんに、「もうアルコールは大丈夫なんだよね? ビール、すぐ持ってきて。なんでもいいから、キリンでいいよ」と、息咳切って注文をしていた。そんなに焦らなくてもいいのではないかと思ったのであるが、この店でお酒が飲めるのを、ずっと待っていたんだろうなあと思うと、なんだか、じーんときてしまったのだ。

おじさん、ほんと、よかったですね、と思いつつ店内を見渡してみると、わたしの後ろの四人席では、これまた定年退職しているであろう男性の四人組がサワーなど呑みながら談笑しているではないか。いいねえ。これが人間の日常、あるべき姿だと思うのであるが、コロナ禍で、それができなくなっているのである。このままコロナが収まってくれないものであろうか、などと、またしみじみとこの一年半の自粛生活をなんとなくぼんやりと思いだしつつ、ゆっくりと箸を動かして昼ごはんを終えたのであった。

 

考えてみるともう2年近くも、わたしたちはマスクをして、大声で笑うこともなく、親しい友人たちとお酒を飲んで騒ぐこともなく、旅行に出かけることもほとんどなく、親戚や、場合によっては親子でさえ気軽に顔を合わせることもなく、過ごしているのである。いつの間にかそんな生活にも少しずつ慣れてきてしまっているような気がしないでもない。ウイズコロナというのであろうか、こんな状態のことを。

しかしやっと、食堂のお客のおじさんたちのように、すこしずつ通常の生活にもどってきはじめたところなのである。このまま徐々に普通の暮らしにもどれるのであろうか。わたしにはわからないが、ぜひとももどりたい。普通の暮らしの幸せを存分に味わいたいと願っているのである。

 

 

 

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「おあずけの新酒ようやく呑めにけり」

「秋の昼緊急事態開けて呑む」

「月満ちて緊急事態開けて呑む」

「空澄みて緊急事態開けて呑む」

「ひさびさのお酒の甘き秋惜しむ」

「秋惜しむお酒一本の声はずみ」

スマホ見て本は無けれど読書の秋

最近の絶滅危惧種の絶滅の原因はスマホであることが多い。携帯電話は最近はスマートフォンと呼ばれているが、名前の通り基本は「携帯可能な電話機」であるから、これが普及すれば、その他の電話機が駆逐されるのは当然、時間の問題である。
実際、公衆電話はほとんど消えたといっていいのではないだろうか。災害時などの緊急時のインフラとして備えておく必要があるため、絶滅は当分しないとは思われるが、実際に使用されることはほとんどなくなったと言っていいのではないだろうか。わたしも、もう、最後に公衆電話を使ったのがいつのことだったのか、思い出せないほど昔のことになっている。
そして、公衆電話の次は、固定電話であろう。じっさい、若い人の住まいにはもはや固定電話というものは最初から持っていないということが多いのではないだろうか。携帯電話があれば、固定電話がなくてもまずこまらないだろうから。
かくいうわたしのうちにも、じつはもう固定電話はないのである。積極的になくしたというわけではなくて、電話機が壊れてしまったのを、そのままにしているだけなのではあるのだが。でも、固定電話が使えなくなってなにか困ったことになったかというと、これが何も困ったことはないのであった。だから、そのままにしているというわけである。
固定電話の場合は、企業にはまだまだ残り続けそうな気がするので、そうそう早くには絶滅しそうにないと、わたしは予想するのだが、どうなのであろうか。世の中の動きはわたしが思っているよりも早そうであるから、案外急速に絶滅するやも知れないなどとも思っているのである。
 

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スマホ見て本は無けれど読書の秋」

「外に出て同じ月見て携帯で」

「虫の音を君に伝えるスマホかな」

スマホにて食欲満たす雨月かな」

 

kwsk.hatenablog.jp

 

 

見上げれば秋澄みにけり宇宙の果て

本日(2021年9月19日)の『東京新聞』朝刊「フロンティア発」欄に「宇宙線の起源は〈超新星残骸〉」という記事が載っていた。

わたしは、「宇宙線」というものは、地球の近くということでいえば、太陽から、そしてそれ以外にも、太陽よりも遥かに遠い銀河などから飛んでくるものと思っていた。もちろん超新星爆発のところからも飛んでくるのであろうと。そういう、これまでは仮説であった「宇宙線の起源」が、やはり「超新星爆発を起こしてできる〈超新星残骸〉であった」ということが突き止められたということである。突き止めたのは、名古屋大学などの研究チームということである。

 

宇宙空間をほぼ光速で飛び交う粒子(宇宙線)はどこから来るのか。これまでの研究から、寿命を迎えた星が超新星爆発を起こしてできる「超新星残骸」が有力視されていました。そんな中、名古屋大などの研究チームは、地球から約3000光年離れた超新星残骸から飛来するガンマ線の観測データを解析し、宇宙線の主成分である陽子が生み出されていることを突き止めました

 

とのことである。

ところで、宇宙線は、この新聞記事に「宇宙線の90%は陽子です」と書かれているように、とても小さくて、とてもとても目に見えるようなものではない。「陽子」というのは、原子の一部である原子核のそのまた一部である。ということは原子よりも小さいということである。分子や原子が見えないのに、陽子が見えるはずはないのである。

しかも、あまりにも小さいので、どこもかしこも通過してしまっているらしい。そう、わたしたちの体だって宇宙線がどんどんぶつかると言うか、スイスイと体を通り抜けているということである。

 

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この宇宙線、直接は見えないのであるが、飛んでいるということが分かる装置があるのをご存知だろうか。

霧箱」という装置がそれである。全部の宇宙線が見えるわけではないのだが、宇宙線のいくつかは、この装置があれば、宇宙線の飛跡を目で見ることができるのである。霧箱は、東京だと上野公園の科学博物館にある。東京都以外でも、科学館などには置いてあるところが結構あるはずである。見たことがある方もいるかも知れないと思うのだがどうであろうか。

この霧箱は、なんと手作りすることもできるのである。ドライアイスでアルコールを冷やして、アルコールの霧をつくってやると、その中を宇宙線放射線)が通ると、飛行機雲のような飛跡をつくるものがあるのである。

わたしは、じっさいにこの霧箱というものを見たことがあるのであるが、じつにもう、ビュンビュン飛び交っているのが見えるのである。霧箱の暗いアルコールの霧の中に、まるで流れ星が無数に飛んでいる光景が見えたのである。きれいであった。思わずしばらく見とれてしまった。

いやあ、はじめてみたときはちょっと信じられなかった。ほんとにこんなにたくさんの宇宙線が飛び交っているの? とびっくりした。だがじつは、この霧箱で飛跡が見える宇宙線宇宙線の一部のものだけであるというのだから、ますますびっくりである。

霧箱、楽しい。

 

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「見上げれば秋澄みにけり宇宙(そら)の果て」

「見上げれば月一つあり他になし」

「月見れば飛び交う陽子宇宙線

宇宙線体を抜けて秋の空」

干し柿に刺さり続ける太陽光」

干し柿に無数に当たる宇宙線

干し柿や陽子飛び交う宙にぶらり」

「秋の空見えそで見えない宇宙線

宇宙線浴びて爽やか宇宙(そら)を見る」

「月を抜け地球も抜けて宇宙線

「地球まで天の川から宇宙線

宇宙線当たっておいし木の実かな」

宇宙線秋澄みにけりそこらじゅう」

「新酒にも飛びこんでいる宇宙線

「見上げれば宇宙の起源天の川」

 

新酒飲み本を開けば夜も更けて

前回、大阪の小さな書店、隆祥館書店の二村さんという書店主の紹介記事について書いた。

 

kwsk.hatenablog.jp

 

その記事には、こんな、小さな書店の抱える問題についての記述もあったのである。

 

「ランク配本という制度があります。本は取次という卸会社から各店舗に配分されるんですが、この時に月商と売り場の面積によって配本される冊数が決まります。うちのような小さな書店は、その時点で不利。

以前、見本を読んだ段階で「売れる」と判断し、発売前からたくさん予約注文を取った本がありました。当店が何度も週間の売上数全国一位を記録したのですが、文庫化された時の配本はまさかのゼロ。

もちろん取次会社の中にも現状を変えようと奮闘してくれる人もいますが、制度自体は何も変わっていません。せめて著者別の販売実績を配本に反映してほしいです。〈この本屋さんはこの作家さんが得意〉というふうに個性が光ってる方がお客さんも楽しいでしょう」

 

 という問題である。書店が、この本はうちで売れる、売りたい! と思っても、新刊が出た時に売りたいと希望する冊数を配本してもらえないのである。これでは、書店もやる気が発揮できないではないか、とわたしも思う。なんとかならないものであろうか。二村さんも「制度自体は何も変わっていません」とおっしゃっているように、ずっと以前から指摘されている問題なのである。それにもかかわらず、いまも変わっていないということなのである。

よく売れる有名作家の新刊は、大きな書店に行くと、入ってすぐのところに、山積みされているということがよくあるが、隆祥館書店くらいの小さな書店には、行っても全然置いてなかったりすることがある。そういう問題なのである。

 

現在、日本にはだいたい1万1000店ほどの書店があるので、新刊本がたとえば1万部作られたとすると、各書店に1冊としても、全部の書店には行き届かないことになる。ましてや大きな書店には100冊とか配本するとなると、小さな書店には行き渡らないことになってしまう。

取次会社にとってみると、毎日毎日次々と刊行されている新刊書籍を、たくさんの書店に配本しなければならないわけであるからして、そんなきめ細かいことはやってられないということだとは思うのであるが、書店を利用する人にとっては、近くの小さい書店にこそ、人気作家の本は売っていてほしいのではないだろうか。そうでなければ、ますます小さな本屋さんは潰れてゆくことにならないか?

総務省統計局によると、2019年の新刊本の点数は、約7万点とのことである。これは、1日にするとだいたい200点になる。取次会社は複数あ

るとはいえ、これだけの本を毎日毎日全国の書店に配本するというのは、大変なことであるだろう。わたしにはちょっと想像の範囲を超えているような気すらするが、しかし、読者と書店と取次会社と出版社の連携をより良いものにしてゆく努力はしたいと思うのである。

 

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「新酒飲み本を開けば夜も更けて」

「新酒買い本屋に寄ってから帰る」

「本に出合う読書の秋本屋にて」

「ぎゅうっとつまる小さな本屋読書の秋」

月照らす小さな本屋見つけたり」

「本屋にて見つけてうれし月を見る」

秋の雨本屋に入ればいつか晴れ

本日の『東京新聞』朝刊の「あの人に迫る」に、大阪の書店主が登場していた。わたしは仕事が本に関係する者なので、これは読まなくてはと思い、読んだところ、なかなかよかった。わたしにとってかなり感動的な内容であった。

記事のタイトルはこうである。「出会い生み出す 本屋さんは宝箱」。

出会いというのは、本と人の出会いであろう。これはきっと店主の体験であり、願いなのだと、わたしは思う。

その書店というのは、大阪市の隆祥館書店という店で、広さは13坪、43平方メートルということであるから、小さい書店である。ここ20年くらい、これくらいの大きさの駅前の小さな書店がどんどん潰れていることを憂いているわたしとしては、とてもうれしい気持ちでこの記事を読んだ。創業した父親のあとを継いだ二村知子さんという娘さんがすごく頑張っている話なのである。

 

atta2.weblogs.jp

 

もちろんこの書店だって、いまの世の中の流れから離れて存在できるわけはないのであって、

「私が店を手伝い始めた25年くらい前には、一日お客さんが四百人来ていたのが、最近は多くて八十人。本はもう時代に合わないのかなと思うこともあった」

と述べているように、この二十年くらいで、お客さんはなんと五分の一に減っているのである。単純に計算すれば売上だって同じくらいに減ると思われるので、ふつうならばこれではとてもやっていけないのではないだろうか。まあ、だからこの隆祥館書店と同じような規模と立地の書店が、この二十年の間に次々と閉店していったわけである。

書店業界紙の『文化通信』によれば、この二十年で、書店の数は半減しているとのことである。凄まじいことである。絶滅危惧種とまではいかないけれど、「本はもう時代に合わないのかなあ」と思うのも仕方のないことかもしれない。

www.bunkanews.jp

 

しかし、しかしである。この隆祥館書店店主の二村さんは、そこをなんとか持ちこたえているのである。2011年から、本の著者を招いたトークイベント「作家と読者の集い」をはじめたり、最近では、北海道の書店の試みを倣って「一万円選書」というイベントも始めていて、好評のようである。

 

多くの本屋さんが店を閉じる選択をするなか、二村さんは何故そんなに頑張れるのかというと、

「私自身が深く傷ついた時、立ち直らせてくれた本があるからです」

とのことである。

「そんな時にたまたま、星野富弘さんが自分のことを書いた『愛、深き淵より。』を読みました。不慮の事故で手足の自由を失い、絶望の中、口に筆をくわえて詩や絵画を描き続けた人です。読んだ時、〈私は甘えていたな〉と気が付きました。なんとか自分でできることをしようと思いました。その本は、たまたま自分の店で目について手に取ったもの。本屋には、本との偶然の出合いがあるんです」

とのこと。

やはり、二村さんも、本に出会って、立ち直った人なのであった。

 

わたしは、10代後半のころ、本屋さんがいちばん好きな場所だった。お金がなくても滞在できるところだったしなあ。いや、いまでもやっぱりいちばん好きな場所なのかもしれない。そういえば、この2年ほど本屋さんにあまり行っていないのだが、いかんいかん、通販ばかりで本を買ってはいけないなあ。本屋さんに行かなくては。

 

二村さんは、シンクロナイズドスイミングの元日本代表で、現代表ヘッドコーチの井村雅代さんから受けた教え「敵は己の妥協にあり」が信条とのこと。いいことばだなあ。わたしの胸にグサッと刺さる言葉だ。すこしは二村店主を見習わなくてはいけない。

ところで、隆祥館書店のホームページにはこう書かれている。

「読書は心の森林浴」

わたしも、心の森林浴に励もう。

 

 

「秋の雨本屋があれば良き雨か」

「本屋にて秋の匂い森林浴」

「秋めいて本屋で出会う人と本」

「秋の夕読むべき本を探す本屋」

「本と人出会うべくして秋の本屋」

「人本と出会うは秋の本屋かな」

「宝箱本屋で出会う身にしむ本」

「身にしむや本屋は宝箱なりき」

「本屋にて残暑の散歩終わりかな」

「本屋無き読書の秋何処かな」

「秋の暮見つけた本屋吸い込まれ」

「心森林浴してる秋の読書」

「長き夜や読書は心森林浴」

野のものは野に命ありて風薫る

 
わたしが最近読んで、とても良かったと思った本があるので、その紹介をしたい。
 
『命の意味 命のしるし』
上橋菜穂子・齊藤慶輔著、講談社、2017年1月。
 
この本は、「野のものは、野に帰してやりたい」という言葉の意味を、それを物語という方法で考えてきている作家と、じっさいに、傷ついた野のものを治療し、野に帰すという仕事をしている獣医師との対話です。
 
著者のひとりは、上橋菜穂子さん。作家です。『精霊の守り人』や、『獣の奏者』などを書かれています。
もうひとりの、齊藤慶輔(けいすけ)さんは、獣医師で、北海道釧路の猛禽類医学研究所の代表として、傷病鳥などの治療と野生復帰などの仕事をされています。
 
作家と獣医師という、一見全然関係のなさそうなお二人ですが、上橋さんは物語の中で、「なぜ、生まれてきたのか。なぜ、死んでいくのか」、そういうことを知りたいから物語を書いているのかもしれないと述べています。齊藤さんは獣医師として、日々、命に向き合っている人です。
そういう、まったく違うと思われる視点からの、人間だけでない「命」、「生きているということ」の意味を考えさせられるお話です。
 
「野に帰す」って、傷ついた野生動物を治療して、傷が治ったらまたのにもどせばいいだけではないかと、わたしはこの本を読む前は思っていました。が、齊藤さんのやっていることは、そんな簡単なことだけではなかった、ということを、この本を読んでしみじみと教えられました。そして「野に帰す」ということの意味を考えさせられました。わたしが理解できたかどうかということは別にしてですが。
 
第二章「なぜ治したいと思うのか」の「救えなかった命が教えてくれること」という節にこんな話がでてきます。(71ページ)
 
「春になると、カエルが道路を横断するため、そのカエルを狙って、路面に降りてきたシマフクロウが車にはねられるという事故が起こります。
 翼のある彼らが、なぜ車が突っ込んでくる前に逃げられなかったのか。
 命を落としてしまった鳥が運びこまれてきたときには、野生動物の獣医師は、人間でいう〈検視官〉の役割を果たします。遺体を解剖することで、原因を突きとめるのです。解剖してわかったのは、ほとんどの場合、車が来る方向を見ながら死亡しているという事実でした。原因はヘッドライトの光です。突然のまぶしい光に目がくらんで立ち往生しているところに、車が突っこんできたのです。車が接近しているのはわかっていて、逃げたいのに逃げられなかった。
 原因がわかった以上、貴重な種がこれ以上失われることがないよう、できるだけ早く対策を立てなければなりません。シマフクロウが危険を察知して逃げられるようにするにはどうすればいいのか。釧路にある環境省国土交通省の人たちと協力して、事故現場の手前の路面に、スリップ防止用の溝をつけて、車が通ると音と振動が起こるようにしたのです。
 死んでしまった命を救うことはできないけれど、原因を見極め、対策を立てることで、次の世代を守るために生かしたい。そのために、獣医師だけでできることは限られていて、さまざまな人の知恵や力を借りることが必要になってきます。」
 
ただ運び込まれてきた傷ついたり、あるいはすでに死んでしまっているシマフクロウを診察するだけではなく、なぜそういう怪我をしなければならなかったのか、あるいはなぜ、どうやって死んだのかという原因まで探って、それを解明して、その原因を取り除くという活動、これはもう獣医師の本来の仕事ではないと思われるのですが、齊藤さんはそこまでしているのです。
そう、街の犬猫病院とはやっぱり違うんですね。野生獣医師というのは、ただ治すだけでなく、野生動物を危害から守るということまでも仕事なんだということがよくわかります。「困っている野生動物を助ける。野生動物が傷つけられないようにする」ということも、大事な仕事なのです。
 
また、第四章「ふたつの世界の境界線で」の「ワンチャンスを生かす」という節にはこんな話があります。(98ページ)
 
「1996年、オオワシオジロワシが大量死する問題が起こったときのことです。
 死因不明のオオワシの死体が野生生物保護センターに運び込まれてきたのは、私が赴任して2年目のことでした。見た目にはなんの傷もない。ところが解剖してみると、胃の中から鉛の散弾が出てきて、私は即座に、これは鉛中毒だと確信したのです。それからも、センターには次から次へとオオワシオジロワシの死体が運び込まれてきました。どの死体も無傷で、私はすぐに鉛中毒の検査をしました。
 なぜこのとき、赴任して間もなかった私にそんな対応ができたのかといえば、学生時代に、やはり死因不明のコハクチョウの死体の解剖を頼まれたことがあったのです。そのコハクチョウも、やはり釣りのときに使う鉛のおもりを飲みこんでいた。そのときに、鳥の鉛中毒について世界じゅうの大量の文献を調べたことがありました。それでこのときも、ワシの体の状態(症状や剖検所見)から、鉛中毒を起こしたにちがいないと気づいたのです。……
ワシの胃の中からシカの毛が出てきたことで、ハンターがシカを鉛の弾で撃ち、猟場に放置されたその肉をワシが食べたことによって、鉛中毒で死んでしまったのだとわかった。鉛中毒の怖さは、その個体が助からないというだけではありません。生態系への影響がものすごく大きいんです。……
このままなんの手も打たなかったら、ただでさえ希少なワシたちは、あっという間に全滅してしまうかもしれない。
原因は鉛の銃弾です。
弾さえ鉛から銅に替えてもらえたら、ワシは鉛中毒を起こさずにすむのです。……
私はさっそくハンターの方たちにそのことをお願いすることにしました。……
こういうときに、〈敵〉と〈味方〉にわかれて言い争ったとしても、なにも解決しないし、かえって事態が険悪になったりする。こういうときこそ、相手の立場に立ってものを考えなければ、信頼関係は絶対に生まれない。獣医師である自分にできることは、現場で起こっている事実をできるだけありのまま、辛抱強く伝え続けることだけです。特定の誰かを糾弾するためでなく、できるだけありのまま事実を伝えるという姿勢が大事なんだと思います。……
鉛中毒の問題は、猟ができる自然環境をやがてダメにしてしまうかもしれない。やがてハンターの方たちの中にも、興味を持って、話を聞きに来てくれる人が現れました。ハンターは、猟についての専門家です。私のほうにも教わらなければならないことがある。問題を提起するだけではなく、相手の価値観によく耳を傾けること、現場をよく知る人に知恵を借りること、私は、このときにそれを学びました。……
そうして、ついに二〇〇〇年、北海道ではシカ猟で鉛のライフル弾を使うことが禁止されました。」
 
わたしは、「北海道では、鉛の銃弾の使用が禁止されている」ということは知っていましたが、それが実現した陰に、この齊藤さんがいたということは初めて知りました。これはもう本当に、獣医師というよりも、ご本人が本書の中に書いていらっしゃるとおり、「環境治療」医と名付けるべきお仕事だと思います。
 

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また同じ章の、「環境治療をライフワークとして」にはこんな話もあります。(109ページ)
 
東日本大震災のとき、原発事故が起こって、自然エネルギーに対する関心が高まり、北海道でも、風力発電の風車がものすごくたくさん作られました。その結果、その風力発電のブレード(羽)に当たって、四十羽以上のオジロワシが死んでしまったのです。そうすると、なかには、風力発電そのものをやめようと言い出す人も出てくる。私は、これ以上鳥たちが傷つかないようにしたい。しかし、エネルギー問題として考えたときに、はたしてこれからもずっと風力発電を使わないという選択ができるでしょうか。なにかを〈やめる〉のは簡単です。ただ〈やめる〉と決めたとたん、それを〈やる〉ための技術や理論もとまってしまう。そうじゃなくて、今やるべきは、どうしたら人間は風というエネルギーを、自然や動物たちを傷つけることなく活用できるのかを考えることだと思うのです。」
 
これは、本当に、いま大きな問題となっている事柄です。風力発電だけでなく、太陽光発電が環境を壊してしまうということも大きな問題となっています。この太陽光発電が森の伐採などの環境破壊の原因になっているという問題にしても、だからといって太陽光発電を始めとする再生エネルギーを否定するのではなく、なんとか、よい解決策を見つけ出せないものかと、わたしも思います。これは、まさにいま、人間に課せられた大問題だと思っています。人間が考え続ければ、なんとか解決の方法が見つけられるに違いないと、齊藤さんは書かれています。わたしもそう思います。
 
いままさに、「野のものは野に帰す」ということを、お仕事の内容ははぜんぜん違うとはいえ、実践している真っ最中のお二人の対話は、いまこれから、人間は、命ある地球のために、なにをしなければいけないのかを問うていると思います。
 
 
「野のものは野に命ありて風薫る」
「飛べるなら野のものは野に帰す夏」
「野のものは野に帰すべし夏の空」
オジロワシ風力発電羽根怖し」
オオワシや鉛の銃弾なぜ食べた」
「最強の鷲鉛中毒無言」
「死なずともよいなら死ぬなシマフクロウ
「巨大羽根鷲には見えず風に死す」
「大鷲がはばたけずとは鉛弾」