わたしが若い頃には考えられなかったことだが、いまや、ネット上に上がっていないものはない、というか、「ネット検索で引っかからないものはこの世に存在していないに等しい」らしい。「いや、ネット検索しても引っかからないものって、いっぱいあるだろう」と、わたしなどは思ってしまうのだが、そんな考えはもはや古いのだろうか。
わたしは、ネット検索に引っかからないから、それは存在しない、というのはちょっとどうかと思うのだけれど、それはおいておくとしても、検索に引っかけるためには、とりあえず名前は必要かと思う。となると、名前のないものはこの世に存在しないといえるのだろうか。
さて、少し前の『東京新聞』(2021年3月20日朝刊)の「筆洗」に、こんな記事が書かれていた。
「……台湾発のニュースによると、回転ずしチェーン店「スシロー」が台湾で、サケを意味する「鮭魚」という字が名前にある人を対象に、「無料食べ放題」のキャンペーンを実施したところ、少なくとも百三十五人が改名した▼三回まで改名できる台湾の仕組みが大きいようで、すぐに元の名前に戻す人もいたという。……」
これはまたすごい、とわたしは思ってしまった。寿司の無料食べ放題のために名前を変えるなんて。これは、日本ではまず起こらない事態であろうと思う。というか、日本では簡単に名前を変えられなかったと思うから、やりたくてもできないことになるのかな。まあこの制度的制約を考えないと仮定してみても、やはり日本では、だれもお寿司のために改名をする人はいないような気がするのである。
それは、夫婦別姓がなかなか認められない日本をみていると、なんとなく同じ問題のような気がするのである。名前に対するこだわりが強すぎるといってもいいかも知れないと思う。わたしはどちらかというと、名前というものに対するこだわりが少ないほうだと思う。だから、結婚してもそれまでの自分の姓を名乗りたい人はそうすればいいと思う。わたしは、結婚と、姓を同じにすることとは別のことだろうと思うのである。
最近は離婚も増えていることだし、したがって再婚も増えるわけだろうから、そのたびにいちいち姓を変えていたのでは、本人はもちろんであるが、周りの人もその人をどう呼んでいいのかわからなくなったりすることもあって、とっても不便であると思う。もちろん、結婚を機に姓を変えたい人は変えればよいと思う。でも、変えないという選択肢もあるべきと思うのである。まあ、ひとつの家の玄関に表札を2つかけないといけなくなるので、それはちょっと手間だが、それくらいはまあいいではないかと思う。
考えてみると、ちょっと昔には、成長にしたがって名前を変えていたみたいであるし、通常の生活では本名ではなくペンネームのようなものを使っていた人が結構いたのではなかったのだろうか。
なにも台湾のように、3回は名前を変えてもいいというふうになってほしいとまでは思わないが、自分の名前を自分の好きなように名乗ることがもっと気軽にできてもいいのではないだろうか、と思ったりもするのである。自分の名前を自分でつけてもいいとなると、けっこう楽しいのではないだろうか。どう名付けるかということによってその人となりが推測できたりもしそうだし、なんだか楽しいことになりそうな気がしてきた。