だいたいは日々のなんでもないお話

日々の記録というか、忘備録。本が好きです。

わたしの今年の漢字は、「疎」。

今年の漢字というのがある。1年間のまとめなのだから、2021年の「今年の漢字」を決めるのは、年末のことである。

しかし、わたしとしては、はもうこれに決まりだ、「疎(そ)」。

意味は、「過疎(かそ)」という熟語があるように、「まばらなこと」「密でない」ことである。コロナの感染を防止するために、この1年間は、みな、「疎」であることが求められてきた。いや、今も続いている。2021年は、「疎」な1年になるに違いないと予想する。

その証拠には、最近、流行っているものは、「ソロキャンプ」であり、「ソロサウナ」である。それだけではない、推奨されている「在宅勤務」というものも、「ソロワーク」である。楽しい会食や飲み会も疎(うと)んじられ、孤食や一人飲みが推奨され、飲み屋や食堂は、まったくもって「疎」な状態である。
しかし、「ソロ」は漢字ではないので、流行語にはなれても、「今年の漢字」にはなれないのである、残念だが。だから、「疎」なのだ。
 

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ちなみに、2020年の「今年の漢字」は、「密」であった。

 

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「ワクチン」というのも、今年の流行りの候補だが、これは漢字ではないので、「今年の漢字」にはなれないのだ。「ワクチン」って、漢字ではなんと書くのだろうか?

 

TVドラマのお話「ドラゴン桜」

わたしは、TVドラマを見る。そんなにいっぱいは見ていないと自分では思っているのだが、他の人々がどれほどTVドラマを見ているものなのかよく知らないので、比較ができない。まあそれはいいとして、最近始まったもので、見てみようかなと思っていたテレビドラマを見た。それは、TBSの日曜劇場、「ドラゴン桜」である。

わたしがこのドラマを、なぜ見てみようと思ったかというと、主役が阿部寛だからである。わたしは好きなのだ、阿部寛が。だから、わたしは、阿部寛が出ている、これまでのテレビドラマは殆ど見ていると思う。

で、「ドラゴン桜」の第1回目を見た。なんだかハチャメチャであった。まあ、教師ではなく、弁護士であるということもあるのだろうが、この先どうなるんだろう? と、ちょっと心配になってしまった。もちろん作られたドラマなんだから、ちゃんとなるようになるはずだ、ということは分かってはいるのだ。しかしこの無茶な弁護士加減は面白い。次回も見たい、とわたしは思ってしまった。ま、阿部寛のファンだからというのも、もちろん大きいとは思うのだが。

まだ1回目なので、ドラマの内容について云々することができないのが残念なのだが、きっと面白いと思える第一回目であった、ということは言える。次が楽しみである。

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kwsk.hatenablog.jp

 

緊急事態宣言下のゴールデンウイーク

新型コロナウイルスのための緊急事態宣言が、東京都で、また出た。いまでもすでに夜8時過ぎには街から人がとても少なくなっているが、それが一層進むことだろう。静かなゴールデンウイークになってしまうが、まあそれも致し方ないか。

図書館は休業はしないようだが、出入りの自由さは一層制限されるようだ。飲食店でのアルコールもだめになりそうな感じだし、家から出ても行くとこころがないことになりそうである。いったい、どうゴールデンウイークを過ごせばいいのであろうか。なやましいなあ。

それにしても、人の居ない町はやはり寂しい。そんな町では、そうそうに自宅に帰ることになるのだろうなあ、みんな。このような生活がまだまだ続いてしまうと、わたしなどは、もう、これ以前の普通の生活がどんなだったか、忘れてしまいそうで怖い。いや、そんなことにはならないと思っているのだが、どうなんだろう。

ゴールデンウイークは会社にも行かないわけだから、わたしとしては、まずは、運動不足にならないように、散歩に精を出そうかと、いまは考えている。しかし毎日毎日ただ歩くだけというのもなんだかなあ。ゴールデンウイークじゃないよなあ。

 

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コロナ禍でのいろいろな暮らし

わたしは最近、有料老人ホームで暮らしている知り合いと、ずいぶん久しぶりに電話でお話をした。コロナの前は、ときたま訪ねていたのだが、コロナになってからはそれは禁止されたので、もう1年以上お会いしていないのだった。電話での声はとてもお元気そうだったので良かった。

しかし、やはりコロナ禍での暮らしは、ずいぶんといろいろな制限がかかっていて、大変そうであった。まずは、外出がままならないとのこと。病院に行くこと以外の外出は禁止だとのことである。うーむ。そんな〜。

それでは、足腰が弱ってしまうではないかと心配したのだが、知り合いは、毎日、庭を行ったり来たりのジグザグに散歩をしているとのことであった。雨の日は仕方がないので、施設の中の廊下を行ったり来たりの散歩だそうである。廊下の散歩って、多分つまらないだろうなあと思うのだが、しかし、だからといって歩かない日が続くと、だんだん歩くことが億劫になって、そのうち歩けなくなってしまうことになりはしないか。そう、とにかく毎日、たとえ部屋の中を行ったり来たりであったとしても、歩くことは止めてはいけないに違いない。

自分で外に行って何かをするということができないので、たとえば、郵便物を出すのも、施設の職員の方にお願いするしかないそうである。うーむ、なかなかたいへんだなあ。

家族との面会も、ガラス越しで、声は聞こえないらしい。何かの受け渡しをするときにも話をしてはいけないらしい。家族同士でもだ。うーむ、そうなのか。

施設の職員のひとりがコロナに感染したことがあったらしい。その時は、みな、部屋から外に出てはいけないということになったとのことである。2週間。部屋から出てはいけないって、それはないのではないかと思ったが、そんなことも一度だけではあるがあったそうである。

施設としては、入居している人に、とにかくコロナに感染させてはいけないというのが第一の使命なのであろう。それはまあわかる。

しかし、人間としての暮らしの質はどうなるのだ。何もかも禁止して、とにかくコロナに感染しなければそれでいいのであろうか。と、わたしなどはちょっと思ってしまった。でも、集団で暮らしていると、わたしはいいから、というわけにはいかないのだろうなあ。他の人に迷惑がかかるかもしれないからなあ。

わたしが、将来そういう施設に入って暮らすことになったとしたら、おとなしく暮らしていけるのであろうか。ちょっと心配である。

 

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広いところが好き

わたしは、きょう、銭湯に行ってきた。いやー、何年ぶりだろうか? 数十年ぶりかな。すごく気持ちよかった〜。あらためて、わたしは銭湯が好きなことを再確認した日だ、本日は。

と自分でこう書いていながら、なぜこんなにもわたしは銭湯が好きなのか、じつはよくは分かっていない。しかしとにかく、銭湯から帰ってきて数時間が経過しているのだが、いまだになんだか晴れやかな気持ちが続いているのだ。こんなに銭湯が好きだったのかわたしは? と自分でも呆れているところである。

いちばんは、やっぱり広いということだろう、銭湯のいいところは。二番めはなんだろうか? と考えてみたが思いつかない。そうか、ただ広いということだけでもう十分なのかもしれない。しかしほんとかなあ。それだけでこんなに幸せな気持ちになれるなんて、かなり単純すぎないか。自分ながら呆れてしまっているのだが、他の理由が思い当たらない。いまのところではあるが。

 

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うーむ。そうか、わかった。わたしは広いところが好きなのだ。

そう言われると、たしかに、狭い場所は好きではない。家の中よりも断然外が好きだ。山歩きも好きだ。キャンプも好きだ。散歩も好きだ。川も海も好きだ。そういう場所で感じる、開放感を愛しているのかもしれない。

夏は毎日、川へ

このところ日中が暑かったので、わたしの子どもの頃の夏のことをなんとなく思い出した。夏の間は、わたしは、ほとんど毎日、すぐ近くの結構大きな川で遊んでいた。

基本は川で泳ぐのだが、泳ぐだけではない。潜ったり、河原で遊んだりと、ほんとに今から思うと、一体何をしていたのかなあと思うのだが、とにかく夏休みなんかは、もう朝から夕方までずうっと川で遊んでいたような記憶がある。

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とくによくやってた遊びにはこんなのがあった。川に白い石などを投げ込んで、それを潜って取りに行く遊びである。みんなで一斉に川に飛び込んで、誰がいちばんにその石を取ってくるかということを競い合うのである。

楽しかったのだが、たまにヒヤッとするようなこともあった。川に潜ると、底のほうは水温が冷たいことがあるのである。だから、1〜2m位潜ると、水をかいでいる手の先がその水温が低いところにさしかかると、冷たさを感じるのである。これはちょっとびっくりするのである。深いところに潜るということだけでも大変なのに、その冷たい部分に入っていくというのはちょっと勇気を必要とするのである。最初の頃は、おっかなびっくりで、手が冷たいところに届いただけで、びっくりしてそこで潜るのを止めて、水面に引き返したものであった。

頭では、底の方は冷たいのだ、ということがわかってはいるのだが、体は反射的に嫌がって、引き返してしまうのである。

 

そんなことがあったなあと、思い出したのであった。そんなわけで、大人になった今でも、川は大好きである。

子どもの頃の体験はその人となりを作るのだなあと、そんなことを思い出しながら考えた。そんなわけだから、わたしのような自然の中での体験を、いまの子どもたちにもぜひ持ってもらいたいと思う。それは親が、そういう環境を子どもたちに作ってあげなければならないことだと思うのである。自然の中での楽しい体験というものは、人間にとって、あったほうがいいものというよりは、なくてはならないものなのではないかという気がしている。

人間は、自然によって生かされていると思うのだが、都会で便利に生きているだけでは、その事を忘れてしまっているような気がするのである。

だが、その事を忘れてしまったとき、人は自然を平気で破壊してしまうのではないだろうか。そしてその破壊した自然とは、当然わたしたち人間もそこに含まれているのである。そう、自分で自分を破壊してしまうのである。何かが滅びるとき、それはだれかに滅ぼされるということももちろんあるのだろうが、人間の場合は、きっと、その誰かは自分であるような気がしてならない。

それを、そうならないようにするのは、いま生きているわたしたちの役目である、と思う。いま、しなければいけないことは何なのか。考えつつ行動したい。

 

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食事の店が、長期戦の構え

きょうは、わたしが、お昼ごはんを食べにときどき利用する蕎麦屋さんに、ちょっと久しぶりに行った。そうしたら、前回来たときにはなかったと思うのだが、各テーブルに、透明なアクリル板が設置されていた。それに、入り口には、これも今まではなかったのだけれど、体温を測るための装置と、手をかざすと消毒液が噴霧される消毒の装置が置かれていた。

おお、この店までこんな物を置くようになったのかあ、と驚いてしまった。コロナ禍ももう1年も続いているわけだが、これまでこんな体温測定装置などおいていなかった店までも、まだ当分コロナ禍が続くとは判断したということなのだろう。そうでなければ、もしまもなくコロナ禍は止むと思っていたならば、今更このようなものを設置はしないに違いないと思う。

まあ、毎日、自分の体温を測ってもらえるというのはありがたいことかもしれない。

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わたしたちは、この先も長くコロナと付き合っていかなければならないということなのだろうか。いつかコロナも、インフルエンザと同じような感じになる日が来るのであろうか。