だいたいは日々のなんでもないお話

日々の記録というか、忘備録。本が好きです。

本日の失敗

わたしは、運動不足解消のためにスポーツジムに通っている。

で、本日も、ちょっと夜遅くなったのだけど、お風呂だけでもはいれたらいいかと思いながら行ったところ、看板のライトが付いていないではないか。

あれっ、と思いながらも玄関まで歩いていったのだが、やはり閉まっていた。え〜、なんで? と思ったところで、気がついたのである。そうだ、きょうは祝日であった。だから閉店時刻が平日より早いのであった。

というわけで、すごすごと自宅まで戻って、自宅のお風呂に入ったのであった。

まあ失敗は失敗であったが、自宅とジムの往復で運動にはなったから、良しとしようではないか、と自分に言い聞かせたのであった。

あけましておめでとうございます

2022年になった。

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明けましておめでとうございます。

 

コロナ禍のため、「田舎に帰る」という、わたしのず〜〜っと続いてきた習慣が途切れてしまった。そうすると、年末年始のお休みというものを、一体どう過ごして良いものやら戸惑ってしまうのである。じつは今年は帰省しようと決めていたのであるが、コロナ禍だけでなくそれ以外の事情もあって、断念したのである。

からして、ホントは今頃いるはずのない自宅にいるのであった。居る予定ではなかったのであるからして、特にやらなければならない用事というものもないのである。まあ本来お正月というものはこんなものなのかもしれないとも思うのではあるが、なにしろ長い間、お正月は実家で親戚がたくさん集まって、なんだかんだ慌ただしい日々を過ごしていたのであるからして、そういうのがなにもないのでどうしていいのやらわからなくて、なんだかじつになんだかぼ〜っとしてしまうのである。

しかもわたしは、この、ぼ〜とするということが嫌いではないというか、どちらかというと好きなのであるからして、ずっと、ぼ〜っとしているうちに時間がどんどん過ぎてゆくのである。新年早々、こんなことでよいのであろうか。

などと思いつつ、新年の1日目を静かに過ごしている。

うん、2022年は、こんな感じでありたいなあ。静かにぼ〜っと今年1年を過ごそう。決めた。これがわたしの今年の抱負である。

静かにぼ〜と過ごす!

 

紙のマスコミ,動画のマスコミ

わたしが最近,webで読んだお話である。
ある大学の授業にゲストで呼ばれて出版企画の話をした出版社の人に,学生がした質問にこんなのがあったそうである。
「私は動画はめっちゃ見るんですが、紙は全然見ません。紙のマスコミって影響力あるんですか?」
 
学生が本を読まなくなっていることは,わたしも,知り合いの大学の先生や,大学を出て間もない若者から,そういう話は幾度も聞いたことがあるので,そうなんだろうなとは思っていた。が,しかしこの記事の学生は,「紙」は全然見ません,といっているのである。これはほんとなのであろうか。「全然見ない」とは相当なものである。
それに,「紙のマスコミ」という言い方も,初耳である。「マスコミ」といえば,まあテレビもあるけれど,メインは新聞や週刊誌などの雑誌だと思っているわたしなどはもう時代遅れなのかもしれないと痛感させられる言葉である。
いまや情報を得る道具といえば動画の時代なのであろうか?
わたしなどは,動画はどうも苦手である。何もしないでも勝手に流れて,かといって,テレビなどは,大事なところで止めようとしても止められるわけでもなし。困った道具だと思えて仕方ないのである。こちらは受け取る一方でしかない。眼の前をサラサラと流れてゆくだけである。楽といえば楽であるのだが。そして,便利でもあるのではあるが。
 
テレビはすでに数十年前から存在していたわけであるが,それは主に自宅で座って見るものであって,どこでも見るという訳にはいかないものであった。だからして,持ち歩いてどこでも見るというか読むマスコミは,なんといっても新聞と雑誌であった。
ところがである,いまや通勤通学の電車の中で,新聞や週刊誌を読んでいる人は,ほとんどいなくなってしまった。それもこの1年間ほどに急速に変化したように思う。
では皆何を見ているかといえば,そう,スマホである。メールやSNSを見ている人もいるが,なんと動画を見ている人が結構いるのである。
そう,いまや,いつでもどこでも動画なのである。しかも,新聞や週刊誌のように場所を取らないし,重くもない,そのうえページをめくる必要もないのである。ただモニターを眺めていれば,むこうから動いていってくれるのである。楽ちんである。便利である。
人間は,どんどん便利な方へ便利な方へと流れていく生き物であるのならば,この流れの方向はもはや変更はできないのであろうか。情報を伝えることと,情報を得る方法は,すべて動画を使ってという方に集約されていくのであろうか。というか,すでにもはやそうなりつつある途中のような気もするのであるが,どうなのであろうか。
 
しかしこの動画というものは,便利であるだけでなく,その便利さが故の欠点もあるように思うのであるが,いかがなものであろうか。動画においては,情報を受け取る人は,ただ画面を見て声を聴くだけでいいのであるが,あれっと思ったとしてもそこでとまって後ろに戻ったりができないわけではないかもしれないが,ほとんどの人はそんなことをしないでどんどん流れ込んでくる情報を受け取るばかりになってしまうのではないか。
そう,わたしが思うに,情報を受け取るだけの人間が増えていくのではないかと思えるのである。情報を得て,その先を想像したり,これからどうなるかを予想したりできなくなっていくということはないのであろうか。
どうも,自分の頭で考える人が増える方向に入っていないのではないかと思えてしょうがないのである。
「紙のマスコミ」は世の中から消えていくのであろうか? わたしはやはり,消えないでほしいと願っているのである。
 
 

足湯ブーツってなんだ?

「足湯ブーツ」なるものの存在をご存知であろうか。

自宅で足湯ができるのである。それだけならば、まあお風呂場の洗面器にお湯を入れたり、湯船にお湯を張って、足をつければ、「自宅で足湯」はできないことはないのである。しかしこれのすごいところは、「ブーツ」であるというところにあるのである。

足湯をしながら動き回れるということなのである。びっくりである。

しかもただのお湯ではなく、「薬用ホットタブ重炭酸湯」というタブレットを溶かしたお湯で足湯ができるというのがまたいい感じのようである。

 

わたしは、12月14日の『東京新聞』の記事で知ったのであるが、驚いた。

というのも、つい最近、会社の同僚と、「エアコンつけてても、足元が寒いね」「ええ、わたし冷え性なんですよね。足先が冷たいです」「足湯したいねえ」「バケツでですか? でもすぐに冷たくなるんじゃないですか」というような会話から始まって、夜眠るときの足や手の冷えにどう対処するか、というような話題で盛り上がったばかりだったからなのである。このブーツの存在をそのとき知っていたならば、誰かがこのブーツを早速買ったやもしれないと思わないでもないのである。

この「足湯ブーツ」というような商品が開発されるということは、足先や手先の冷え性で困っている人が、やはり結構いるということなのであろう。

だがしかし、だがしかしである。ブーツというものは、そもそも足が濡れないように、水から足を守るものなのではないか。それをまったく逆にしてしまったわけである、このブーツは。

まあ、防水という点では、要するに表裏をひっくり返せば、同じことなのであろうが、本来は水が入ってこないように作られたものを、水が出ていかないようにするとは、うーむ、まいった、という感じである、わたしにとっては。

 

だがしかし、これはひょっとしたら素晴らしい発明なのかもしれない。温泉や銭湯に行かなくても、自宅でいろいろと用事などしながら「足湯」が可能になるなんて、いや、自宅だけでなく、これならば、職場でもやろうと思えばやれるのではないだろうか。デスクワーク中心の人ならば、わたしは、可能な気がするのであるが、いかがなものであろうか。

う〜む、気になるう〜。使ってみたい〜。

パンダの手拭い

絶滅危惧種とまではいっていないと思うのだが、昔は至るところにあったし、みんな使っていたのだけれど、このところあまり見かけないものの一つに「手拭い」というものがあると思うのだがどうだろうか。最近見かけるとしても、お祭りのときのはちまきとか、農作業のときのほおかぶりなどでしかないように思う。日常的に使っている人はそんなにいないのではないだろうかと、わたしは思う。

ところで、わたしは手拭いを毎日使っている。タオルとして、お風呂で使うのである。また、アウトドアに出かけるときなども持っていっているのだ。タオルよりもかさばらないところが好きなのである。それに、乾きも断然はやい気がする。

でまあ手拭いも毎日使っているとやはりだんだんくたびれてきて、ついには穴があいたりするのである。だから、わたしはときどき手拭いを買うのであるが、つい最近も、通販でこんな手拭いを手に入れた。パンダ柄である。なかなかいいと、自分では気に入っているのである。

 

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ところで、送られてきた荷物をほどいてみると、手拭いのほかに、写真に写っているのだが、パンダの人形?のようなものが一緒に入っていたのである。

これが、手のひらの中に包み込んでにぎにぎしてみたのであるが、なかなか気持ちがいいのであった。そういう用途に使っていいものなのかどうかわたしには判断がつかないのであるが、かといって、鞄にぶらさげるのはやはりちょっと恥ずかしいような気がする。女子高生が鞄にこのようなものをいっぱいぶら下げているのを見かけるが、おじさんがこのようなものをぶら下げていたら、いやいややっぱりちょっとへんであろう。やめておきたいと私は思う。

まあ鞄の中に潜ませておくくらいにしておきたい。そして、ときどき通勤電車の中で鞄をちょっと開けて、なかのこのパンダをちらっと見てにこにこしようか。ときどきは鞄のなかに手をつっこんで、このパンダ人形をにぎにぎしてやろうか。そうすると、疲れが少しは飛んでいくかもしれないと思うがどうであろうか。それも変であろうか。

 

お題「これ買いました」

 

塀のなか大木の根は外にあり

高級住宅街を通ると、だいたいは高い塀が続いている。だからして、歩いていてもずっと塀を眺めることになるので、あまり楽しくはない。まあその塀の上からは木々や花などが顔をのぞかせていることもあるが、人の目の高さには延々と塀しか見えない。

散歩はだからして、わたしは、高級でない住宅街を歩く方がだんぜん楽しい。なんとなれば、目の高さに見えているものが、生け垣だったり、道路際に鉢植えがいっぱい並んでいたり、家の造作だったりしているからである。

高級住宅街の高い塀は、まあ泥棒や不審者の侵入を防ぐためなのであろう。家の中にたくさんのお金や高価な宝石や家具などなどがあるとやはりこうなるのであろうと思われる。わたしはこういう塀族には属さない庶民族であるので、実際のところの理由は知らないのであるが、まあ間違ってはいないであろう。

ところで、こういう高い塀に囲まれている家に住んでいる人は、他人に外から見られたり簡単に入っていけないのと引き換えに、縁側に座ってぼんやりと道行く人を眺めたり、近所の人が通りかかって、お互いにあいさつをするなんてことはできないのである。家の中と外が断絶しているのである。つながっていないのである。

欧州の街の映像などをテレビで見ることがあるが、カフェでは、たいてい道に向かってオープンな場所に机と椅子があって、そこで、道行く人々を眺めながらぼんやりとコーヒーなどを飲んでいる光景がある。それはカフェでももちろん構わないのであるが、塀のない家であるならば、自宅の縁側でもおなじように、この楽しみを味わえるのである。これはかなり素晴らしいことなのではないだろうかと、わたしは思っている。

 

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しかし塀族の皆さんは、そういう楽しみを味わったことがないんだろうなあ。それで、わざわざ町中まででかけてゆき、お金を払ってカフェに入って、道行く人びとを眺めるのであろう。

 

 

「塀のなか大木の根は外にあり」
「黄落や塀のなかにも外にも落つ」
「屏通り空見上げれば同じ月」
「紅葉の上だけ見せる塀の中
「塀の街ものはいっぱい人はなし」
「虫の声塀の中なら黄金虫」
「秋深しビールにするか熱燗か」
「待ちかねてあわてて注文新酒かな」
211027「秋の昼緊急事態開けて呑む」「月満ちて緊急事態開けて呑む」「空澄みて緊急事態開けて呑む」「おあずけの新酒ようやく呑めにけり」「ひさびさのお酒の甘き秋惜しむ」「秋惜しむお酒一本の声はずみ」

おあずけの新酒ようやく呑めにけり

東京都のコロナ禍による緊急事態宣言が解除された。そして、禁じられていた飲食店でのお酒の提供が、可能になった。

わたしは以前、「アルコールが消えた」というタイトルで、わたしがお昼を食べるためによく行く食堂でアルコールの提供がなくなった話を書いた。ある人々にとっては、ささやかな楽しみを奪われたのである。

 

kwsk.hatenablog.jp

 

で、緊急事態宣言が解除されたことによって、その食堂でもお酒が無事に飲めるようになったわけである。めでたしめでたしである。

ところで、この食堂はなぜかお昼どきに、ビールや焼酎や日本酒を飲みながらお昼を食べているお客さんが、結構いるのである。しかも緊急事態宣言中に飲めなかったものだから、なんだかいまは以前よりも飲んでいるお客さんが増えているように思うのだ。みなさん、やっぱり結構我慢を強いられていたのである。その反動であろう。

先日、カウンター席に座っていたわたしの隣りに来たお客さんは、初老の男性であったが、座るか座らないかのうちに、水を運んできた店員さんに、「もうアルコールは大丈夫なんだよね? ビール、すぐ持ってきて。なんでもいいから、キリンでいいよ」と、息咳切って注文をしていた。そんなに焦らなくてもいいのではないかと思ったのであるが、この店でお酒が飲めるのを、ずっと待っていたんだろうなあと思うと、なんだか、じーんときてしまったのだ。

おじさん、ほんと、よかったですね、と思いつつ店内を見渡してみると、わたしの後ろの四人席では、これまた定年退職しているであろう男性の四人組がサワーなど呑みながら談笑しているではないか。いいねえ。これが人間の日常、あるべき姿だと思うのであるが、コロナ禍で、それができなくなっているのである。このままコロナが収まってくれないものであろうか、などと、またしみじみとこの一年半の自粛生活をなんとなくぼんやりと思いだしつつ、ゆっくりと箸を動かして昼ごはんを終えたのであった。

 

考えてみるともう2年近くも、わたしたちはマスクをして、大声で笑うこともなく、親しい友人たちとお酒を飲んで騒ぐこともなく、旅行に出かけることもほとんどなく、親戚や、場合によっては親子でさえ気軽に顔を合わせることもなく、過ごしているのである。いつの間にかそんな生活にも少しずつ慣れてきてしまっているような気がしないでもない。ウイズコロナというのであろうか、こんな状態のことを。

しかしやっと、食堂のお客のおじさんたちのように、すこしずつ通常の生活にもどってきはじめたところなのである。このまま徐々に普通の暮らしにもどれるのであろうか。わたしにはわからないが、ぜひとももどりたい。普通の暮らしの幸せを存分に味わいたいと願っているのである。

 

 

 

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「おあずけの新酒ようやく呑めにけり」

「秋の昼緊急事態開けて呑む」

「月満ちて緊急事態開けて呑む」

「空澄みて緊急事態開けて呑む」

「ひさびさのお酒の甘き秋惜しむ」

「秋惜しむお酒一本の声はずみ」