だいたいは日々のなんでもないお話

日々の記録というか、忘備録。本が好きです。

自給とネットワーク

『食べもの通信』という月刊誌がある(食べもの通信社発行,合同出版発売)。その2023年2月号に載っていた記事,平賀緑さんインタビュー

「食料不安 解決は地域に根ざすつながりから」

を読んだ。

そこに見つけた文を紹介したい。(平賀緑さんは,京都橘大学経済学部准教授)

 

「じつは現在でも,〔世界の食の〕約7割を供給して人びとを養っているのは小農や家族農業をはじめとする,地域に根ざした食と農のシステムなのです。

 そのような〈食〉には,農村で自給的に生産されている食べものや,それを親戚や知人にお裾分けする食べものもあります。消費者が家庭菜園や,屋上やベランダで育てる食べものもあります。

 つまり,市場に組み込まれておらず金銭価値で判断されない,資本主義のカラクリから外れた食料調達の重要性を見直し,その本当の価値を大切にしていくことこそ,日本を含めた世界の食料安定に必要だと思います」

 

地球規模では,特に日本のように多くの食料を輸入に頼っていると,この先も今と同じように必要なものが必要なだけ輸入できるのかどうかが大変不安になる。

しかしながら,この平賀さんの述べるように,自分たちのまわりを見てみれば,小さな農家があったり,わたしのようにマンションのベランで野菜を,ほんの少しであるが育てている人がいるのである。そういうネットワークを探したり,作っていくというのが,そんな不安を解決することになるのではないだろうか。

これもまた,ていねいに生きるひとつのあり方のような気がする。自給とネットワークである。

 

ていねいに食べる

「ていねいに食べる」などというタイトルで何かを書こうとしているのであるけれど,じつをいえば,わたしは若い頃はまったくていねいに食べることなどしていなかったのだ。わたしが若い頃にいちばん良く食べたものといえば,インスタントラーメンである。インスタントラーメンを食べることがていねいでないと言っていいのかどうかはわからないのであるが,とにかく当時のわたしは,食べることにていねいであろうなどとは考えたこともなかったことだけは確かである。

が,もうインスタントラーメンは,まったく食べていない。しかしラーメンは好きなので,ラーメン屋さんや中華料理店のラーメンは今でもときどき食べている。

 

わたしが今,食べることでていねいにしたいと思っていることは,なるべくならば,食材に,それ以外のものが入っていないものを食べたいということである。そして,できることならば,その原料がどこからどのようにして来たものであるのかがわかっているものが食べたいと思うのである。

 

この時期,もうすぐバレンタインデーということで,街にはチョコレートがそこここで売られている。このチョコレートにしても,たとえば,わたしは,このようなチョコレートを選択して食べたいと思っているのである。

「森へのチケットチョコレート」というのは,チョコレートの原料である,カカオを,単一に育てるのではなく,いろいろな植物を森のように育てている,その森の中でカカをも育てるという,森林農法で栽培されたカカオからつくられたチョコレートという意味なのである。

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いまあるチョコレートの多くは,こういう農法ではなく,場所によっては,森を伐採して,平地にし,そこにカカオだけを植えて育てるというやり方でつくられている。このほうが手間がかからず,大型の機械を使って,安く大量にカカオが採れるというわけである。

しかし,そうやってつくられた農地は,毎年同じものだけを育てるので,土が疲弊するのである。そうなってくると,カカオの育ちも悪くなる。でどうするかというと,化学肥料や農薬が大量に必要になるのである。

ていねいに食べることを目指しているわたしとしては,できることならばそういう農法で育てられたカカオからつくられたチョコレートは食べたくない。

 

最近まで,ここに紹介したような,森林農法で,肥料や農薬を使わないで育てられたカカオというものがあるということを,わたしは知らなかったのである。が,そういうことを知った今は,できるならばそのようなチョコレートを食べたいと願うのである。

これが,今のわたしの「ていねいに食べる」ことの一つの選択である。

 

もし以前のわたしと同じように,このようなチョコレートがあることを知らなかった方がいたら,ぜひもっと知っていただきたい。このようなチョコレートを選択して食べる人が増えたならば,もっともっとこういうチョコレートが世の中に出回って,買いやすくなることであろう。それはわたしにとって,とても喜ばしいことである。

ていねいに生活してみる

特別お題「わたしの2022年・2023年にやりたいこと

日々を過ごす,生きるということは,子どもの頃は遊ぶということだった気がする。そしておとなになってからは,それは,仕事をするということになった。そしていま,仕事もしているのだが,生きるということと同義ではなくなりつつある。

ではいまはなにかというと,それはたぶん,生活するということのように思える。

だから,わたしの来年やりたいことはというと,生活の一つ一つを大事にしたいということ。それはたとえば,食べるということ,そして買い物であったり,掃除であったり,寝ることもそうだな。そう,生きるということを一つ一つていねいにしたいということかもしれない。

なにを食べるか,なにを買うか,なにをするか,などなど,しっかり考えてひとつひとつに取り組んでいきたいと思う。

いろいろ飽きすぎ

どうしてわたしはこんなに飽きるのだろうか。このブログを書くということに飽きてしまったのか,前回の書き込みから随分と間が空いてしまった。

考えてみると,これまでもいろいろな新しいことを始めては,何ヶ月かくらいで飽きてしまうのか,続かないことがままあった。ブログを何年も続けて書いている人ってすごいなあと,改めて思う。

なので,ひょっとしたらわたしはもう「ブログを書く」という行為に飽きてしまったのかもしれないと思う。でも,まだ諦めきれないわたしもいるような気がするのである。だから,またこうして書き始めてみている。続くかどうかは今のわたしにはわからない。

 

とにかくこのままブログを書かない日々が一日一日と積み重なっていくのはとにかくまずいのではないだろうかと,突然思ったので,とにかく書き始めてみた。なので,今日はなにか書きたいことがあるわけではない。

うーむ,そうか,書きたいことがないから書き込みをしなくなったのかもしれない。なにか書きたいことが出てきたら,また書いてみよう。

「たのしい」はゆっくりやってくる。わたしのベランダの森

わたしの家のベランダにある森を紹介したい。

「森」と言ってるのはわたしだけかもしれないのであるが,離れたところから眺めるのでなく,ぐぐっと近寄ってなかに入って眺めていると,まるで森の中にいるかのような気持ちになってくるのである。

写っているのは,モミジとコナラの木などなどである。

小さいのであるが,ちゃんと木なのだ。

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そして無事に冬を耐えて,ちょっとピンボケでもうしわけないのであるが,新芽を出している。うれしい。

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こうしてかがんで木々を間近にアップで見ていると,どうですか。森のなかを歩いていて,ふと足元の,高さがわたしの腰までくらいしかないくらいのまだ子どもの木をじっと見ているときと同じではありませんか。

そしてじわじわと,ゆっくりゆっくり身体が軽くなって,「これらの木といっしょにわたしもいまここで生きて暮らしているんだなあ」という思いがわたしの身体に充満していくのを感じられる。

ほんの数分の,自宅のベランでのこんな小さな楽しみの積み重ねが,楽しい思い出となって溜まっていく。幸せというものは案外こんなところになるのかもしれないと思う今日このごろである。

 

お題「ささやかな幸せ」

肉をハサミで切る

本日(2022年3月10日)の『東京新聞』朝刊にこんな記事を見つけた。

 

「生活雑貨メーカーのマーナが〈料理のハサミ〉を発売した」

「調理時に肉をハサミで切る人が多いことがわかり……刃先を細く薄くし、筋切りなど細かい作業をしやすくした」とのことである。値段は1980円。

 

肉をハサミで切る人が多いって、……そうなんだ〜。わたしは知らなかったが、最近の若い人はそういう人が多いのであろうか。ということは、包丁を持っていないということなのであろうか。

ハサミは、袋を切り開いたり、昆布を切ったりするのには使うけれど、肉ですか。ひょっとして、包丁よりも切りやすいのかもしれないが、本当のところどうなのであろうか。今度試してみようかとも思わないでもないが、うちのハサミはそんなに切れ味よくない気がするし、ちゃんと包丁があるから、ハサミで切るなどという事をする必要もないように思うのだが、どうしたもんであろうか。