だいたいは日々のなんでもないお話

日々の記録というか、忘備録。本が好きです。

野のものは野に命ありて風薫る

 
わたしが最近読んで、とても良かったと思った本があるので、その紹介をしたい。
 
『命の意味 命のしるし』
上橋菜穂子・齊藤慶輔著、講談社、2017年1月。
 
この本は、「野のものは、野に帰してやりたい」という言葉の意味を、それを物語という方法で考えてきている作家と、じっさいに、傷ついた野のものを治療し、野に帰すという仕事をしている獣医師との対話です。
 
著者のひとりは、上橋菜穂子さん。作家です。『精霊の守り人』や、『獣の奏者』などを書かれています。
もうひとりの、齊藤慶輔(けいすけ)さんは、獣医師で、北海道釧路の猛禽類医学研究所の代表として、傷病鳥などの治療と野生復帰などの仕事をされています。
 
作家と獣医師という、一見全然関係のなさそうなお二人ですが、上橋さんは物語の中で、「なぜ、生まれてきたのか。なぜ、死んでいくのか」、そういうことを知りたいから物語を書いているのかもしれないと述べています。齊藤さんは獣医師として、日々、命に向き合っている人です。
そういう、まったく違うと思われる視点からの、人間だけでない「命」、「生きているということ」の意味を考えさせられるお話です。
 
「野に帰す」って、傷ついた野生動物を治療して、傷が治ったらまたのにもどせばいいだけではないかと、わたしはこの本を読む前は思っていました。が、齊藤さんのやっていることは、そんな簡単なことだけではなかった、ということを、この本を読んでしみじみと教えられました。そして「野に帰す」ということの意味を考えさせられました。わたしが理解できたかどうかということは別にしてですが。
 
第二章「なぜ治したいと思うのか」の「救えなかった命が教えてくれること」という節にこんな話がでてきます。(71ページ)
 
「春になると、カエルが道路を横断するため、そのカエルを狙って、路面に降りてきたシマフクロウが車にはねられるという事故が起こります。
 翼のある彼らが、なぜ車が突っ込んでくる前に逃げられなかったのか。
 命を落としてしまった鳥が運びこまれてきたときには、野生動物の獣医師は、人間でいう〈検視官〉の役割を果たします。遺体を解剖することで、原因を突きとめるのです。解剖してわかったのは、ほとんどの場合、車が来る方向を見ながら死亡しているという事実でした。原因はヘッドライトの光です。突然のまぶしい光に目がくらんで立ち往生しているところに、車が突っこんできたのです。車が接近しているのはわかっていて、逃げたいのに逃げられなかった。
 原因がわかった以上、貴重な種がこれ以上失われることがないよう、できるだけ早く対策を立てなければなりません。シマフクロウが危険を察知して逃げられるようにするにはどうすればいいのか。釧路にある環境省国土交通省の人たちと協力して、事故現場の手前の路面に、スリップ防止用の溝をつけて、車が通ると音と振動が起こるようにしたのです。
 死んでしまった命を救うことはできないけれど、原因を見極め、対策を立てることで、次の世代を守るために生かしたい。そのために、獣医師だけでできることは限られていて、さまざまな人の知恵や力を借りることが必要になってきます。」
 
ただ運び込まれてきた傷ついたり、あるいはすでに死んでしまっているシマフクロウを診察するだけではなく、なぜそういう怪我をしなければならなかったのか、あるいはなぜ、どうやって死んだのかという原因まで探って、それを解明して、その原因を取り除くという活動、これはもう獣医師の本来の仕事ではないと思われるのですが、齊藤さんはそこまでしているのです。
そう、街の犬猫病院とはやっぱり違うんですね。野生獣医師というのは、ただ治すだけでなく、野生動物を危害から守るということまでも仕事なんだということがよくわかります。「困っている野生動物を助ける。野生動物が傷つけられないようにする」ということも、大事な仕事なのです。
 
また、第四章「ふたつの世界の境界線で」の「ワンチャンスを生かす」という節にはこんな話があります。(98ページ)
 
「1996年、オオワシオジロワシが大量死する問題が起こったときのことです。
 死因不明のオオワシの死体が野生生物保護センターに運び込まれてきたのは、私が赴任して2年目のことでした。見た目にはなんの傷もない。ところが解剖してみると、胃の中から鉛の散弾が出てきて、私は即座に、これは鉛中毒だと確信したのです。それからも、センターには次から次へとオオワシオジロワシの死体が運び込まれてきました。どの死体も無傷で、私はすぐに鉛中毒の検査をしました。
 なぜこのとき、赴任して間もなかった私にそんな対応ができたのかといえば、学生時代に、やはり死因不明のコハクチョウの死体の解剖を頼まれたことがあったのです。そのコハクチョウも、やはり釣りのときに使う鉛のおもりを飲みこんでいた。そのときに、鳥の鉛中毒について世界じゅうの大量の文献を調べたことがありました。それでこのときも、ワシの体の状態(症状や剖検所見)から、鉛中毒を起こしたにちがいないと気づいたのです。……
ワシの胃の中からシカの毛が出てきたことで、ハンターがシカを鉛の弾で撃ち、猟場に放置されたその肉をワシが食べたことによって、鉛中毒で死んでしまったのだとわかった。鉛中毒の怖さは、その個体が助からないというだけではありません。生態系への影響がものすごく大きいんです。……
このままなんの手も打たなかったら、ただでさえ希少なワシたちは、あっという間に全滅してしまうかもしれない。
原因は鉛の銃弾です。
弾さえ鉛から銅に替えてもらえたら、ワシは鉛中毒を起こさずにすむのです。……
私はさっそくハンターの方たちにそのことをお願いすることにしました。……
こういうときに、〈敵〉と〈味方〉にわかれて言い争ったとしても、なにも解決しないし、かえって事態が険悪になったりする。こういうときこそ、相手の立場に立ってものを考えなければ、信頼関係は絶対に生まれない。獣医師である自分にできることは、現場で起こっている事実をできるだけありのまま、辛抱強く伝え続けることだけです。特定の誰かを糾弾するためでなく、できるだけありのまま事実を伝えるという姿勢が大事なんだと思います。……
鉛中毒の問題は、猟ができる自然環境をやがてダメにしてしまうかもしれない。やがてハンターの方たちの中にも、興味を持って、話を聞きに来てくれる人が現れました。ハンターは、猟についての専門家です。私のほうにも教わらなければならないことがある。問題を提起するだけではなく、相手の価値観によく耳を傾けること、現場をよく知る人に知恵を借りること、私は、このときにそれを学びました。……
そうして、ついに二〇〇〇年、北海道ではシカ猟で鉛のライフル弾を使うことが禁止されました。」
 
わたしは、「北海道では、鉛の銃弾の使用が禁止されている」ということは知っていましたが、それが実現した陰に、この齊藤さんがいたということは初めて知りました。これはもう本当に、獣医師というよりも、ご本人が本書の中に書いていらっしゃるとおり、「環境治療」医と名付けるべきお仕事だと思います。
 

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また同じ章の、「環境治療をライフワークとして」にはこんな話もあります。(109ページ)
 
東日本大震災のとき、原発事故が起こって、自然エネルギーに対する関心が高まり、北海道でも、風力発電の風車がものすごくたくさん作られました。その結果、その風力発電のブレード(羽)に当たって、四十羽以上のオジロワシが死んでしまったのです。そうすると、なかには、風力発電そのものをやめようと言い出す人も出てくる。私は、これ以上鳥たちが傷つかないようにしたい。しかし、エネルギー問題として考えたときに、はたしてこれからもずっと風力発電を使わないという選択ができるでしょうか。なにかを〈やめる〉のは簡単です。ただ〈やめる〉と決めたとたん、それを〈やる〉ための技術や理論もとまってしまう。そうじゃなくて、今やるべきは、どうしたら人間は風というエネルギーを、自然や動物たちを傷つけることなく活用できるのかを考えることだと思うのです。」
 
これは、本当に、いま大きな問題となっている事柄です。風力発電だけでなく、太陽光発電が環境を壊してしまうということも大きな問題となっています。この太陽光発電が森の伐採などの環境破壊の原因になっているという問題にしても、だからといって太陽光発電を始めとする再生エネルギーを否定するのではなく、なんとか、よい解決策を見つけ出せないものかと、わたしも思います。これは、まさにいま、人間に課せられた大問題だと思っています。人間が考え続ければ、なんとか解決の方法が見つけられるに違いないと、齊藤さんは書かれています。わたしもそう思います。
 
いままさに、「野のものは野に帰す」ということを、お仕事の内容ははぜんぜん違うとはいえ、実践している真っ最中のお二人の対話は、いまこれから、人間は、命ある地球のために、なにをしなければいけないのかを問うていると思います。
 
 
「野のものは野に命ありて風薫る」
「飛べるなら野のものは野に帰す夏」
「野のものは野に帰すべし夏の空」
オジロワシ風力発電羽根怖し」
オオワシや鉛の銃弾なぜ食べた」
「最強の鷲鉛中毒無言」
「死なずともよいなら死ぬなシマフクロウ
「巨大羽根鷲には見えず風に死す」
「大鷲がはばたけずとは鉛弾」