だいたいは日々のなんでもないお話

日々の記録というか、忘備録。本が好きです。

秋の雨本屋に入ればいつか晴れ

本日の『東京新聞』朝刊の「あの人に迫る」に、大阪の書店主が登場していた。わたしは仕事が本に関係する者なので、これは読まなくてはと思い、読んだところ、なかなかよかった。わたしにとってかなり感動的な内容であった。

記事のタイトルはこうである。「出会い生み出す 本屋さんは宝箱」。

出会いというのは、本と人の出会いであろう。これはきっと店主の体験であり、願いなのだと、わたしは思う。

その書店というのは、大阪市の隆祥館書店という店で、広さは13坪、43平方メートルということであるから、小さい書店である。ここ20年くらい、これくらいの大きさの駅前の小さな書店がどんどん潰れていることを憂いているわたしとしては、とてもうれしい気持ちでこの記事を読んだ。創業した父親のあとを継いだ二村知子さんという娘さんがすごく頑張っている話なのである。

 

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もちろんこの書店だって、いまの世の中の流れから離れて存在できるわけはないのであって、

「私が店を手伝い始めた25年くらい前には、一日お客さんが四百人来ていたのが、最近は多くて八十人。本はもう時代に合わないのかなと思うこともあった」

と述べているように、この二十年くらいで、お客さんはなんと五分の一に減っているのである。単純に計算すれば売上だって同じくらいに減ると思われるので、ふつうならばこれではとてもやっていけないのではないだろうか。まあ、だからこの隆祥館書店と同じような規模と立地の書店が、この二十年の間に次々と閉店していったわけである。

書店業界紙の『文化通信』によれば、この二十年で、書店の数は半減しているとのことである。凄まじいことである。絶滅危惧種とまではいかないけれど、「本はもう時代に合わないのかなあ」と思うのも仕方のないことかもしれない。

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しかし、しかしである。この隆祥館書店店主の二村さんは、そこをなんとか持ちこたえているのである。2011年から、本の著者を招いたトークイベント「作家と読者の集い」をはじめたり、最近では、北海道の書店の試みを倣って「一万円選書」というイベントも始めていて、好評のようである。

 

多くの本屋さんが店を閉じる選択をするなか、二村さんは何故そんなに頑張れるのかというと、

「私自身が深く傷ついた時、立ち直らせてくれた本があるからです」

とのことである。

「そんな時にたまたま、星野富弘さんが自分のことを書いた『愛、深き淵より。』を読みました。不慮の事故で手足の自由を失い、絶望の中、口に筆をくわえて詩や絵画を描き続けた人です。読んだ時、〈私は甘えていたな〉と気が付きました。なんとか自分でできることをしようと思いました。その本は、たまたま自分の店で目について手に取ったもの。本屋には、本との偶然の出合いがあるんです」

とのこと。

やはり、二村さんも、本に出会って、立ち直った人なのであった。

 

わたしは、10代後半のころ、本屋さんがいちばん好きな場所だった。お金がなくても滞在できるところだったしなあ。いや、いまでもやっぱりいちばん好きな場所なのかもしれない。そういえば、この2年ほど本屋さんにあまり行っていないのだが、いかんいかん、通販ばかりで本を買ってはいけないなあ。本屋さんに行かなくては。

 

二村さんは、シンクロナイズドスイミングの元日本代表で、現代表ヘッドコーチの井村雅代さんから受けた教え「敵は己の妥協にあり」が信条とのこと。いいことばだなあ。わたしの胸にグサッと刺さる言葉だ。すこしは二村店主を見習わなくてはいけない。

ところで、隆祥館書店のホームページにはこう書かれている。

「読書は心の森林浴」

わたしも、心の森林浴に励もう。

 

 

「秋の雨本屋があれば良き雨か」

「本屋にて秋の匂い森林浴」

「秋めいて本屋で出会う人と本」

「秋の夕読むべき本を探す本屋」

「本と人出会うべくして秋の本屋」

「人本と出会うは秋の本屋かな」

「宝箱本屋で出会う身にしむ本」

「身にしむや本屋は宝箱なりき」

「本屋にて残暑の散歩終わりかな」

「本屋無き読書の秋何処かな」

「秋の暮見つけた本屋吸い込まれ」

「心森林浴してる秋の読書」

「長き夜や読書は心森林浴」