わたしは、今日は仕事を休んだ。で、ちょっと用事があったので、散歩を兼ねて外に出かけた。そう、平日の昼間に散歩をしてみたのである。いまは、風薫る季節である。とても気持ちがよかった。爽やかな風をうけながら、濃い緑を見たり、手で葉っぱをちょっとなでたりしながら歩いてみた。
こんなふうに気持ちよく歩いている、わたしの頭に浮かんできたことばは、「自由」であった。そう、たしかに前に進もうと後ろに戻ろうと、右に曲がろうと、左に曲がるも、わたしの自由である。
いつもならば、仕事で、イスに座ってパソコンに向かっている時刻なのに、きょうは、平日の昼間に散歩できたというだけで、こんなに気持ちがいいとは。
いや、しかししかし、こんなことで、わたしは自由だ、なんて叫んで、果たして良いものであろうか、自由ってこんな簡単なものではないのではないかという危惧が湧いてきた。
たとえば、自由を守る会という政党があったような気がするのであるが、この場合の自由というのは、平日の昼間に散歩できるというようなものではないという気がする。あんまり軽く使ってはいけないのではないだろうか。
だがしかし、歩きたいときにふらふらと歩くことができるというのは、やはり「自由」と言っていいのではないだろうか。これだってとても大切なことなのではないだろうか、とも思うのである。
こういう自由だって、守りたいではないか。こんなに爽やかなときに、この爽やかさを味わえないというのは不幸であると、わたしは思うのである。幸福に、楽しく生きることは、なによりも大切なことで、なんとしても守りたいし、すべての人がそうなる方向に役に立つことに努めたいと願っている。それは、仕事においても、仕事以外のことにおいてもである。
このことは、つねに頭に保っていたい。
「平日の散歩の自由風薫る」
「風薫る昼間の散歩自由人」
「梅雨晴れの木香りてどこまでも歩け」
「南風に任せて歩く平日や」
「南風自由に吹けや背中押し」
「橋に立ち南風受け透き通る」
「平日の昼間の散歩木下闇」