だいたいは日々のなんでもないお話

日々の記録というか、忘備録。本が好きです。

ネット上の文章

わたしは最近は、何かわからないことがあって、知りたいなと思ったときには、すぐにネット検索をしてしまうようになっているような気がする。少し前まではそんなことはなかったのだが、ここ1年くらいでそうなってしまった気がする。

以前に比べて、大抵のことはいともかんたんに調べられてしまうので、最初のうちは、なんだかずるいことをしてしまっているような気がしたものだが、いまやそんな感覚もなくなって、もうまるで何年も前からの習慣のように身についてしまったと思う。

そういうふうに、いろんな知識が得られるという意味で言えば、ネットの世界って、「雑誌」や「書籍」「事典」のようでもある。じっさい「ウィキペディア」というネット上の事典もある。わたしはいつもお世話になっている。
ネット上の記事を書いている人は、雑誌や書籍で言えば、筆者であろう。とすると編集者もいるのだろうか? いや、編集者に当たる人はいないはずだ。例えばこういうブログだって、一人の人が書くというか打ち込んだ文章を、自分で読み直して、誤字などがないかどうかを確認して、なければ、returnキーを押して、ネット上にアップして完了ということになる。

そう、ネットって、「編集者のいない雑誌」なのである、とわたしは思う。

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(電車内でこういう人を見かけることはホント少なくなったなあ)

 

しかし更に考えてみると、やはり紙の雑誌と違うと思うのだ。紙は燃えたり水に濡れたりしない限りかなり長い年月、保存できる。
その点が違う。ネットの記事は消えてしまう可能性がおおいにあるのだ。だから、研究対象というか、ネットの記事を典拠にした研究ができないのではないだろうか。

なぜならば、将来の人が、その研究論文を読んで、真偽を確認しようと、出典先となっているネットの記事を確認したいと思っても、もはやその記事がネット上から消えている可能性は高い。その可能性があるのであれば、その論文は研究資料とはもはや言えないのではないか。

これはとくに民衆文化などを研究する人にとっては、大問題ではないのか。そんなことはないのだろうか? もし問題になっていないとするならば、問題になっていないのが不思議な気がする。どうなんだろう。

 

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(ネットばかりに頼っていてはいけない?)