わたしは、おしゃれな人に憧れている。いいなあ、と思う。羨ましいなあと思う。それはつまり、わたしがからきしおしゃれがだめだからである。
でも、どうして、わたしはおしゃれが苦手なのだろうか。そして、おしゃれが苦手な人間になったのはどうしてなんだろうか。ちょっと考えてみた。
そう言えば、わたしの子どものころって、どんな服を着ていたかなあ、と思い出してみよう。夏はランニングシャツと半ズボンだったかな。学校に行くときはシャツは着ていたと思う。しかし、自分で買うとか、買う時に自分で選ぶとか、そういう事をした覚えはないような気がするのだ。つまりは、わたしは子どものころには、おしゃれというものに関心がなかったということだろうと思う。これって、いまもそうなんじゃないだろうか、ひょっとして。
では、わたしが、大人になりかけのときはどうだろうか。高校はほぼ全員が男という学校に通っていたので、これまたほぼ毎日、制服のようなものを着ていたなあ。休日に街なかに遊びに行くときも同じ格好をしていたような気がする。うーむ、だめだだめだ。その後も基本、Tシャツとジーパンで暮らしていたと思う。これでは、わたしがおしゃれの感覚を身につけるときがないではないか。
このあとは、大人になるというか、社会人になるわけだが、そうなるともう、背広、またはズボンとジャケットの組み合わせ一本である。
そうか〜、こうして、いま大急ぎでわたしの過去を振り返ってみたのだが、どうやらそもそもおしゃれというものに興味関心がほぼなかったということが、わかった。そして、おしゃれに興味関心がなくっても、たのしく過ごしてこられたということである。
むむ、そうか、そういうことなのか。これがよくなかったのかもしれないな。おしゃれに興味関心を持たないと困るような環境で、わたしが暮らしていなかったということが、わたしがおしゃれな人間に育たなかったことの一番の原因だったのかもしれない。いや、これはなにも、わたし自身のことをどこかに置いておいて、周りの環境というか、家族や友だちというか、そういう他の人をせめているわけではない。ただそういう環境の中に、わたしという人間が生まれて育ったということを、改めて確認したということである。
そう、環境がわたしを作ったのである。だからわたしは、おしゃれになるということに、時間とお金を注がなかったというわけだ。
なにがしかの分野に詳しくなるなり、何事かを自分の身につけたいと願ったならば、やはりそこに時間とお金を使わなければならないということである。
いやいや今からでも遅くはない。では、いまからおしゃれにお金と時間を費やせばいいだけではないか、ということなのかもしれないが、どうもそう簡単には問屋がおろさないのである。未だに子どものときと一緒で、どうも、わたしは、おしゃれというものに関心があまり向かないのである。すぐに面倒くさくなってしまうのである。わたしは、本屋は好きでよくいくし、おおきな本屋の中でなら数時間滞在しても飽きるということがない。しかしながら、洋服屋さんには、そもそも入りたいと思ったことがそんなにはないのである。たまに入って洋服を見て歩いても、すぐに飽きてしまうのである。どうやらやはり、いまからおしゃれになるというのは、わたしにとっては、たぶん不可能なことのように思えてならない。
うーむ。わたしは、きっぱりと、おしゃれな人間になる夢は諦めよう。で、まあ、そうだなあ、おしゃれではないけれど、スッキリ清潔感のある格好に努めるということならできるのではないだろうか。
わたしは、しっかり銭湯に通って体を洗って、身も心もスッキとすることに努めよう。新しい服もめんどくさがらずに、ちゃんと自分で探して買おう。よし、決めた。