わたしは、以前に、日本の世の中でほとんど聞くことが無くなりそうなことばとして、「いかさま」をとりあげた。
今回は、同じくほとんど聞かれなくなったことばとして、「じべた」をとりあげたい。
もっとも今回は、そのものずばりの『じべた』という絵本の紹介のニュースを読んで、「そういえば、わたしもこのところ久しく〈じべた〉という言葉を発する機会がないなあ」と思い至ったので、とりあげたのだが、絵本が出るくらいなのだから、絶滅を危惧することはないのかもしれない。
でも、ひょっとしたら今の都会の子どもたちには、この「じべた」ということばの意味が通じないかもしれないとも思うのだが、いかがなものだろうか。私の気持ちとしてはそんなことはないよという返事を聞きたいと願っているのだが。
「じべたに座り込む」とか「じべたに手をつく」とか、最近しないよなあ。生活が、机と椅子の生活様式になったこともあるのだろうか。
でも、「じべた」って、とっても大事なところだと思うのだ。
じべたがなければみんな海になってしまう。ということは、海から陸に上がってきた動物というものが存在できないことになる。 そう、わたしたち人間も生きていけないということだ。じべた、大事なんだから、もっともっと大切にしようよ。
いま、あまりにもじべたをないがしろにしていないか。どこまでもじべたを掘って穴をいっぱい開けて、傷つけていないか。じべたは、動物が生きていくためになくてはならない植物にとっても、なくてはならないところだ。じべたを穴だらけにして木が枯れたらきっと人間も滅びてしまう、そんな気がする。
地球を人間の好き放題にいじってはいけないと思う。地球とともに、植物とともに、他の動物とともに、みな一緒に、ずっと生きていきたい。
だから、「じべた」ということばは、なんとしても絶滅させてはならないと思う。もっと使わなくては、「じべた」。