だいたいは日々のなんでもないお話

日々の記録というか、忘備録。本が好きです。

「物としての本 装丁家が提起」というタイトルの記事が『日本経済新聞』2010年2月9日夕刊に載っていました。

「押し寄せる電子化の波にあらがうかのように,装丁家たちが,丹精込めた「紙の本」を代に送り出す」
ということで,小学館の『東と西1』や白水社の『戦争と美術と人間』が取り上げられていました。この本はそれぞれ,装丁家の池田進吾と司修が手がけているとのことです。

記事のなかで,同じく装丁家菊地信義さんの言葉が紹介されていました。
「本の物質性は最近5〜10年で急速に衰えた。薄っぺらいポスターのような本があふれている」「物としての価値がない本は早晩,完全に電子書籍にとってかわられる」

「薄っぺらいポスターのような本」というのは,読むべき中身のない本のことでしょう。
しかしこの,「物としての価値がない本」というのは,いったいどんな本のことなんでしょうか。「読んだあとも自分の本棚にずっと残しておいてときどき手に取りたくなるような本」でしょうか。それとも,ただもう「手にとって眺めるだけでうれしくなるような造本の本」のことなのでしょうか。

本の中身(物語や,著者の思想)は視覚に訴えることができません。だからこそ言葉で表現したわけですから,当然といえば当然のことです。そのとき,本はその言葉の入れ物に過ぎないわけです。しかし,じゃあ,1冊の本の形で読む物語と,A4判のコピー用紙に横組みでプリントされた物語とが,言葉では同じだとしたらどうでしょう。どちらで読んでも同じなのでしょうか。
実際に実験をしたことがないので,なんともいえませんが,でも,A4のコピー用紙では小説を読んでみたいとは,わたしは思いません。いやです。

これは,なぜでしょうか。慣れの問題でしょうか。どうなのでしょう。

著者にとっては,書いた言葉の世界に,それを読む人を引き込む力の問題でしょうか。読もうかどうしようかと思っている人に「読みたい」という気持ちになってもらわなければいけないのですから。そのための,言葉の器は,やはり読みたくなるような物であって欲しいわけです。
これが,「物としての価値」ではないでしょうか。