だいたいは日々のなんでもないお話

日々の記録というか、忘備録。本が好きです。

アルコールが消えた

わたしが、お昼を食べるのにいつも利用している食堂に、ちょっと久しぶりに行ったところ、なんと、こんな張り紙があった。

ノンアルコールビール各種あります。◯◯ビール、◯◯ビール、……」

と、ノンアルコールビールの名前が5種類くらい書かれてあった。そして、同時にメニューから、本当のお酒というか、本物のビールや酎ハイなどのアルコール飲料の名前が、消されていたのであった。

このお店は居酒屋ではなく、れっきとした食堂なのだけれど、ふだん、なぜか昼間からビールなどを飲むお客さんが、けっこういらっしゃるのである。それで、わたしなどはそんな人々を「いいなあ……」と横目で見つつ、見ていないふりをしてひたすらご飯と味噌汁を食べている、というお店なのである。

そしてこの日、わたしの席の近くで、わたしと同じくその張り紙を目にした、ひとりのお年寄りの男のお客さんが店員さんに食べ物の注文をしていたのだけれど、そのお客さんは、「お酒はだめなの?…………5月11日が過ぎたら、お酒は飲めるようになるの?」と店員さんに尋ねていた。店員さんは申し訳なさげな様子で、「そうですねえ、緊急事態宣言が出てますからねえ。延長されなければですけどね」というように答えているのが聞こえてきた。

わたしは、そんな受け答えを聞きながら、黙々と昼食を食べていたのだが、心のなかでは、ああ、かわいそうだなあ、この食堂で美味しいおかずを食べながらちびりちびりとお酒を飲むのが、一日の楽しみなんだろうなあ、あのひとは。うーむ、さびしいだろうなあ、残念だろうなあ、なんだかよくわかる気がするなあ、他人事とは思えないなあ。などとしんみりとしていたのである。ひとり静かに飲むくらいいいじゃないか……、とおもうんだけど、そんなことまでやっちゃだめなんてなあ。

このおじいさんは、きっと、自宅でひとりじゃなくて、スーパーで買ってきた惣菜じゃなくて、まわりに人が居て、美味しい刺身かなんかが食べられるこの食堂で、ひとりではあるが、誰ともしゃべらないのではあるが、みんながいる中でお酒を飲みたかったんじゃないだろうか。それが3日に一度の楽しみだったんじゃないのか。それなのに、少なくともあと10日ほどは、そんなささやかな願いも叶えられないなんて。

 

 

f:id:foldingkayak:20210403212950j:plain

 

 はやく、こんなふうに、人と人との間に透明な板を挟んであったとしても、一緒に飲める日が戻ってきてほしいなあ。

 

メモリースポーツ

またまた『東京新聞』で見つけた記事からである。5月1日の「こちら特報部」に載っていたのであるが、どうやら「メモリースポーツ」というスポーツがあるらしい。詳しくはHPを見ていただきたいが、要するに、記憶力の優劣を競うというものだ。運動能力ではないが、(脳の)能力を競うのだからスポーツなのだ、というわけである。

 

www.jmsc.info

 

わたしは、こんな「スポーツ」があったとは、まったく知らなかった。しかも日本だけでなく、というかそもそもは1990年代にイギリスで始まったということで、世界中に競技者がいるとのことである。

そして、わたしが、へぇ〜と感心したことは、「スポーツ」であるということは、練習などで鍛えれば、記憶力というものも鍛えられるということか、ということである。そうなのか〜。

 

しかしほんとに、世の中には、わたしの知らないことどもが、これでもかこれでもかというくらいあるようである、ほんとに。わたしは、もう結構長く生きてきていると思うのだが、まだまだ知らないことだらけである。

そして、そういう知らなかったことを知るのが、また楽しい。そういう意味ではホント、長生きは楽しい。いやまてよ、ただ単に、わたしがあまりにも物を知らなさすぎるだけということかもしれない。もう少し生きて、いろんな新しいこと、知らないことにを知って、それらに挑戦してみたいものである。できれば、体力のいらないものがいいけどね。

 

f:id:foldingkayak:20210503012139j:plain

 

洗たくマグちゃん問題

わたしが愛用しているものの一つに、「洗たくマグちゃん」というものがある。網目の袋にマグネシウムのつぶつぶが入っているというだけのものである。これを入れて洗濯をすると、洗剤を入れなくとも、洗濯ものの汚れが落ちるという謳い文句だった。

それならば、環境にも良いことだし、お金も節約できるし、ということで、早速購入してもう1年以上使用している。わたしの場合は、洗剤をまったく入れないときもあるけれど、シャツの襟などの汚れが気になるときには少なめにではあるが、洗剤も入れて洗濯をしている。

 

ところがである。こんな記事「洗たくマグちゃん 表示効果根拠なし」が、本日、5月1日の『東京新聞』に載っていたのである。

ええ〜、ほんと? そうなの? と、びっくりである。「家庭用の洗濯機での効果は確認できなかった」ということである。

 
www.nikkei.com

 

まあ、このことで誰かが怪我をしたとかいう事態はないであろうし、日本の洗剤の使用量を少なくしたという功績はあるかもしれないが、嘘はいかんよなあ。

洗たくマグちゃんを作っている宮本製作所は、「多大な迷惑を掛け、心よりおわびする。命令を真摯に受け止め、再発防止に努める」とのコメントだそうである。

 

それにしても、う〜む。わたしはどうしたらいいのだろうか? しかし、しかしである。わたしは、この1年近くこの「洗たくマグちゃん」をずっと使ってきていて、まあ洗剤も少し入れてはいたからかもしれないが、とくに問題も感じることもなく快適な洗濯生活を過ごしてきたのである。今後も、今まで通りの洗濯生活を、わたしは続けたいと考えているのだが、良いのだろうか。

だって、考えてみると、ただ水だけで洗っても、洗濯効果はあると言うではないか。まあ油汚れなどはだめかもしれないけれどなあ。

 

f:id:foldingkayak:20210501154134j:plain

う〜む、どうしよう。日々、悩みは尽きない。マグネシウムで洗い流せないものか。

いまや、本は古紙より価値が劣るの?

「あけくれ」という、『東京新聞』の読者投稿コーナーがある。本日の(21年4月30日)そのコーナーに、こんな事が書かれていた。60代の女性の投稿である。

 (父の)残した大量の本があるが、まだ自分が元気なうちに身辺整理をしようと、美術関係の分厚い本を8冊ほど古書店に持っていったところ、全滅した。

というような内容であった。そして、

「今はそういう本を買う人がいなくなってしまったのでしょう。知の宝庫としての本は、古紙としての価値より劣るのかとショックです。もはや、本は古紙回収にしか出せないのでしょうか?」

と締めくくっていた。

わたしは、これと同じような話は、他のところでも聞いたり読んだりしたことがこれまでにもあったので、この記事を読んで、驚きはしなかった。「やっぱりそうなのか」と思ったのであった。

そう、この人が持ち込んできた本を、古本屋さんが買い取ったとして、店頭に並べることになるわけだが、その本を買ってくれる人がいなければ、あるいはいないであろうということが分かっていたら、そりゃあ、古本屋さんは買い取らないだろう。そんなことをしても、場所を取って邪魔なだけであろう。片付けたりするのも大変である。本って重いのだから。

こういう美術関係の本の中身には興味はあるし、手許に置いておくといいなあと思う人がまったくいないとは思えないのだが、しかしである、そんな分厚い本を置いておく場所なんかないのだという人が多いのではなかろうか。

しかも、いまや、ひょっとするとその本の中身はネット上で、完全にではないにしても、読んだり見たりできる可能性もあるのである。あるいは、図書館で借りるという手段もあるのだ。

そう考えると、この投稿者が書いている「知の宝庫としての本は、古紙としての価値より劣るのかとショックです」というのは、ちょっと待ってと言いたい。価値が劣っているわけではなく、お金を払って手許に保存しておく必要性を感じないということなのではないか。となると、こういう事態の問題は、本の中身ではなく、「紙の本」という形の問題なのかもしれない、と思うのだが、これは考えすぎであろうか。

いや、本が好きなわたしとしては、「いやいや、そんな事があるわけ無いではないか、紙の本は不滅だ〜!」と声を大にして叫びたいのだが、このことについては、また時を置いて、じっくりと考えてみたいと思うのだ。

「本は古紙回収にしか出せないのか」って、あまりにも悲しいではないか。

 

f:id:foldingkayak:20210501020749j:plain

 

煮干し、食べるだけではない

久しぶりではあるが、またまた「煮干し」の話である。

 

f:id:foldingkayak:20210429234833j:plain


『煮干しの解剖教室』という本がある。そう、タイトルの通り、煮干しを解剖しようというのである。 

煮干しの解剖教室 (オリジナル入門シリーズ)

煮干しの解剖教室 (オリジナル入門シリーズ)

 

 

「煮干し」は、わたしは、子どものときからお世話になっている。煮干しと言えば、味噌汁であろう。わたしは子どもの頃も味噌汁が大好きであったが、いまも大好きである。子どものころ、ほとんど毎日食べていた我が家の味噌汁の出汁は、煮干の出汁であった。だから、味噌汁を作る前には、煮干しから頭の部分を取り外すという仕事をよく手伝ったというか、手伝わされたと言ったほうが正解かもしれない。そんな覚えがある。思い出してみると、わたしはそのお手伝いは嫌いではなかったという気がする。つまみ食いができるから、というのもあったかもしれないが、煮干しの頭を胴体からポキっと折り取るのが面白かったからだという記憶が何となくある。

しかしそれはもちろん「解剖」などではない。解剖といえば、お腹などを切り開いて、心臓や胃や肝臓などを取り出して観察するということだと思うが、わたしが子どもの頃には「煮干しを解剖する」なんて、そんな話は聞いたこともなかったし、学校の授業でも習ったこともなかった。

はたしてカラカラに干からびてカチカチの煮干しを解剖したからと言って、そんなにうまく内蔵などが観察できるものであろうか。さて、どうなんだろう。

 

kwsk.hatenablog.jp

kwsk.hatenablog.jp

kwsk.hatenablog.jp

 

女性の「自由」

山奥で暮らしている人々を紹介しているところを、テレビ番組で見た。その中のひとりにお年寄りの女性がいて、こんな事を言っていた。「はあ、もういまは自由よ、自由。畑仕事が生きがいで、楽しいのよ」というようなことであった。「自由」って、この人は何のことを言っているのだろうかと、すぐには理解できなかった。

よく聞いてみると、どうもこの「自由」というのが、夫が亡くなって、一人暮らしになったかららしいのだ。

 

f:id:foldingkayak:20210428232515j:plain

(一生懸命、楽しそうに畑を耕す高齢の女性)

 

「いまは一人になったから気ままに暮らしている」とかなら、なんとなく納得なのだが、「自由になった」って大きな声で嬉しそうに言っていたのである。結婚相手が亡くなったことを、「自由」って表現するとは、ちょっと驚きであった。

男であるわたしは、つまるところ、そう言う方ではなくて、言われる立場にあるということになると思うと、なんとも複雑な思いである。うーむ、夫というのは、妻を縛って自由を奪う生き物だったのか、そうなのであろうか。

本当にそうなのか?と思って、しばし、思い出そうと試みた。とりあえず、自分のことはさておいて、まわりの知り合いの夫婦の様子をである。うーん、そういえば、「平日の夜は、晩御飯の準備があるから、外になんて行けないわ」とか、「休みの日に出かけるときは、食事を作っておいてからでないと出かけられない」とかいう女性の声を何度も聞かされている記憶がある、たしかに。そうだな、世の結婚している男性の多くは、かなり女性の自由を奪っているのか、やはり。

いや、しかしわたしは、そんなことはないはずだ。と思っているのだが、もちろんその判断はわたしが下すものではない。妻の範疇だ。実際どうなのであろうか、と少し心配がないわけでもない。しかし、少なくとも、平日の夜であろうが休日であろうが、妻は出かけてはいるので、世の中の平均に比べるとかなり自由であると思っている。わたしが思っているということではあるのだが。

 

いやいや、でもでも、女と男の関係はそんなものだけではないだろう。そんなものだけでは寂しすぎるではないか。もともと他人の二人が一緒に暮らすということは、お互いに自由を奪うということは避けられないのだから、それは、マイナスと言うだけではないのだ。と思う。

一人で畑仕事も自由でいいかもしれない、たしかに。だがしかし、二人で畑仕事なら、自由さは減るかもしれないが、もっともっと楽しくなるのではないか? そうだよな。仕事も捗るし。

テレビで「自由だ〜」と言ってたかた、そうですよね?

 

 

これもコロナが原因か?

「口腔(こうくう)」という言葉を聞いたことがあるだろうか。わたしは、「口腔外科」という言葉を聞いたことがある。まあ歯医者さんの一つだろうと認識している。「口腔」の意味は、「口の中」である。なんでこんな難しい言い方をするのかよくわからないのだが、「口中」ではいけないのだろうか。

という疑問はおいておいて、なぜそんな話をするかと言うと、わたしは最近、口の中が気になるのである。というのは、食事をしていて、歯で口の中の、例えばほっぺたの裏側をちょっと噛んだりすることが増えた気がしているからなのである。

これは、口腔機能が衰えてきているのかもしれないという危機感がある。わたしは食べることと飲むことが大好きなので、まあわたしだけでなくほとんどの人が同じなのではないかと思っているのだが、口腔機能の衰えはなんとしても防ぎたいのだ。いっぱい食べて、しっかり飲みたいではないか。

歯磨きは一応毎日している。だがひょっとしたらそれだけでは足りないのかもしれない。しかし、足りないって、いったいなにが足りないんだろう。運動か? 口の周りの筋肉を鍛えなければいけないのだろうか。早口言葉か? それとも朗読? ひょっとしておしゃべりが足りないのか? うーむ、どうなんだろうか。

とまあ、めったに悩むことがないわたしは、なんとしたことか、悩んでいるのだ。珍しいことである。

 

f:id:foldingkayak:20210428025134j:plain

 しかしこの場合は、悩む前に動け、というべきであろう。さっさと口周りの筋肉を鍛える運動をすればいいだけの話なのかもしれない。というわけで、ときどき早口言葉ではないが、北原白秋が書いたという「五十音」という詩を声に出して朗読してみたりしている。他にもいろいろとそういうのに役立ちそうな文があるようであるが、これが一番と言っていいくらい有名なようである。わたしはずっと以前この詩を大声で読む練習をした覚えがあるのだ。だから懐かしく思いながら読んでいる。

 

ja.wikisource.org

 

ところでこの、わたしの筋肉の衰えの原因は、きっとコロナに違いないと思っているのだ。喋ってはいけない、とくに大声はいけない、友だちと楽しく喋りながらの会食などもってのほかという状況がもう一年以上も続いているのである。これでは、口周りの筋肉が衰えるのは当然ではないか。これもコロナが原因である、きっと。

いったいどこまで影響は広まるのだろうか。ほんとうに、いろいろなことが変更を迫られてくるなあ。変化は往々にして楽しいと思うのだが、何しろ急なことが多すぎるような気がしてならない。

マスクには、わたしはまだどうも慣れることができないでいる。というか慣れることを体が拒否しているのかもしれない。体の反応には素直にしたがいたいと常日頃から願っているので、マスクをしないでもいい日が一日も早く戻ってくることを願っているのだ。