だいたいは日々のなんでもないお話

日々の記録というか、忘備録。本が好きです。

新しいテクノロジーやアイデア Clubhouse

わたしは、テクノロジー好きである。新しい技術が世に出てくるとすごく気になって、使えるものならば実際に使ってみたいと思うのである。が、なんでもかんでも新しいものにすぐに飛びついて購入して使う、というわけではない。だって、そういうものはだいたいにおいて登場したばかりの時期には高価なので、わたしにはそうおいそれとは買えないのだ。とっても残念なのだけれど。

考えてみると、わたしは携帯電話には飛びつかなかった。1995年ころだったのかな、携帯電話が普及し始めたのは。四半世紀、25年前の話だ。わたしはその時には、「すごいものができたんだなあ」と感激はしたのだが、自分で持ちたいとは思わなかった。今は持っているのだが。

その理由ははっきりしている。わたしは「電話というものが好きでなかった」からである。電話というものは、かけてこられるこちらが今何をしているかということにお構いなしに鳴るので、なにかしていてもそれを中断して受話器を取らなければならない。もちろんどうしても出られないときには受話器を取らなければいいのだが。なので、自分が誰かに電話をかけたいと思うときには、今かけても迷惑ではないだろうかどうだろうかということが頭に浮かんできて、できることならばかけないで済ませる方法はないものだろうかというようなことをブツブツと考えてしまうのだ。どうも電話というものは未だに好きにはなれない。

いかんいかん、ついつい昔話にふけってしまった。今に戻ろう。

 

最近、「クラブハウス」という音声SNSアプリとうものが新しくできて、世界中で(?)流行っているらしい。どうやら誰でも使えるわけではなくて、すでに使っている人から招待してもらわないと参加できないようである。というわけでわたしは使ったことはないのである。

だけれども、上に書いたように、新しいテクノロジーというものがとっても気になるので、一体どんなアプリなんだろうと思っているところである。なので、このクラブハウスを話題にしているネット上の書き込みがあるとついつい、使えもしないのに読んでしまうのだ。ほんとに困ったもんだと自分でも呆れてしまうのだが、気になるものは気になるのである。というか体験できないから余計気になるのかなあ。

で、つい最近読んだのが下記のブログの記事である。これまでにも色々とクラブハウスを使ってみた人の書き込みを読んできているのだが、だいたいは「おもしろい!」という記事が多いのだが、これはそうではなくて、廃れていくだろうという意見。

otokitashun.com

わたしは自分で体験していないので、Clubhouseに対する自分の意見というものはないのだけれど、想像するに、映像をオフにしたZOOMの、誰でも入ってくることができる公開ZOOMという感じなのかなと思っている。

ところでこのブログの、音喜多駿さんは、最後にこう書いている。

「これClubhouseが流行らない理由じゃなくて私が苦手な理由ですね?!」

って。この音喜多さんの体験談を読むと、わたしも多分同じ感想を持つような気がしてきた。

でもでも、新しい技術やそれを活用した新しいアイデアって、いいよなあ。「みんな、よく考えているなあ」と思うのだ。わたしも、その新しいテクノロジーやアプリを使ってどんな事ができるのか考え続けたいと思うのだ。まだ使えないのだけれど、考えることはできるので、考えようと思う。それにしても、早く使ってみたいなあ、Clubhouse。

 

テレビドラマ再び

何日か前の『東京新聞』に、こんな記事を読んだ。

「……最近の映画やテレビ番組は、筋書きのスケールも大きく、テンポが速いのはいいのだが、やたらに人が殺されたりして、気持ちを暗くさせるようなものが多いので敬遠しがちだ。その点、古い映画やテレビ番組は、ハッピーエンドに向かう展開も予想できて安心なのか、……年をとって、現代物の刺激の強さに耐えられなくなったのかとも考えたのだが、米国でも別の理由で旧作に人気が集まっていることを知った」

(『東京新聞』2021年2月23日、「米国の旧作人気」(ジャーナリスト木村太郎「太郎の国際通信」欄)

 

わたしは1か月以上前に下記のようなブログを書いた。

「わたしはテレビドラマを見るのが嫌いではないのだが、最近のドラマはどうも刑事物と医者物が多いような気がする。そういうドラマはやたらと人が死ぬし、人を殺す。わたしはそういう場面を見るのは嫌いなので、そういうテレビ番組は見ない。わたしが好きなのは、見ていて気持ちがほのぼのとしてくる明るいテレビドラマである」

というような内容だ。 

kwsk.hatenablog.jp

 

 でも、そういう、人が死んだり殺したりのテレビドラマが多いということは、見る人々がそういうものを欲しているということなのだとすると、それも仕方がないかなと諦めていた。そして、なぜ人びとはそういうものを見たがるんだろうかなあ、ドキッとしたり、ヒエ〜と冷や汗をかいてしまうような刺激を求めているのだろうかなどと想像しながらも、ちょっと不思議に思っていた。

そこに、この木村太郎さんの記事を読んだので、ああやっぱりわたしと同じことを思っている人がいたと、うれしくなったので、紹介させてもらった。

 

わたしはこう書いてはいるが、だからといって見たいテレビドラマがないわけではない。わたしと同じ感想を抱いている人がいたら、下記に紹介するドラマを見てみてほしい。笑いと元気とちょっとほろりとくる温かさをもらえると思う。もっともわたしは放映中のすべてのドラマを見て判断しているわけではないので、これ以外にもいいテレビドラマがあるかもしれないことはご承知を。

まあ、ここに紹介したものだけでも5つあるので、平日は毎日見られることになる。ドラマ以外にも見るべきテレビ番組はあると思うので、あんまり見たいドラマが多いのも困ったもんである。困ったことではあるが幸せなことでもある。しかしテレビの見すぎには気をつけなくてはね。

 

「その女、ジルバ」

www.tokai-tv.com

「ウチの娘は、彼氏が出来ない!!」

www.ntv.co.jp

「俺の家の話」

www.tbs.co.jp

「ドリームチーム」

www.nhk.jp

「オー!マイ・ボス!恋は別冊で」

www.tbs.co.jp

 

野生動物は野生で生きてこそ

わたしはつい最近知ったことなので,多くの方にとっては今更なニュースかもしれないのだが,紹介させてもらう。昨年のお話なのだが,アメリカのニューヨークに巨大なクリスマスツリーを飾るために,遠くから大きな木を運んだところ,なんとその中に小さなフクロウが隠れていたというのである。

natgeo.nikkeibp.co.jp

見つかったときには衰弱していたようで,ニュースにはこのように書かれていた。

「このフクロウは発見後、マンハッタンから約150キロ北にあるレイブンズビアード・ワイルドライフ・センターで数日にわたって治療を受け、最も活発な時間帯である夕暮れどき、森に放たれた。」

 

なんと,無事に回復して自然に戻ることができたというのだ。ほんとに良かった。さすがアメリカというべきか。

私がこの記事を読んで考えたことは,これがもし日本での出来事だったらこのフクロウはどんな運命をたどっただろうか,ということである。

わたしが知らないだけで実は存在するのかもしれないが,日本にはこの「レイブンズビアード・ワイルドライフ・センター」のような,野生動物を保護して自然に戻すための施設というものはないのではないかと思う。となると,衰弱死するか,あるいは動物園とか個人に引き取られて,死ぬまで籠の中で過ごすかのどちらかになるのではないだろうか。野生動物はやはり野生で生きていてほしいと,わたしは思う。だれかこういう施設を作らないかなあ。

 

民主主義とデジタル技術

東京都はまだコロナ感染防止のための緊急事態宣言が解かれそうにないのだが、新型コロナの感染拡大を封じ込むのに成功した国として台湾があるらしい。詳しくは知らないのだが、24日の『東京新聞』の1面に載っていた。

「……台湾はデジタル技術を駆使して感染拡大を防ぎ、民主的な感染症対策のモデルを世界に示した」(「民主主義のあした」『東京新聞』2021年2月24日朝刊)

 

この「デジタル技術を駆使」を担当しているのが、台湾デジタル担当相のオードリー・タンさんである。さて、「デジタル技術」と「民主的な感染症対策」がどうして関係があるのかなと思って読みすすめると、こういうことである。

「いまの代議制民主主義では、数年に一度の投票でしか人々の声が政治に反映されません。しかし、デジタル技術の力を借りれば、すべての人が社会問題や公共の課題についてアイデアを出し、政策に反映させることができます。数年に一度の選挙を待つ必要はなく、短時間で立場の異なる人々と共通認識を築くことができます。これがデジタル民主主義の意義です。

例えば台湾の制度では、ある議題について五千人の人々がネット上で署名すれば、二カ月以内に政府の担当部局トップが回答する規定があります。(これまでの議題は)プラスチック製ストロー、使い捨て食器の禁止、離島などへき地医療の問題などでした。こうした取り組みは民主主義のチャンネルを増やします。

〈民主〉とは政府の活動だけではなく、市民がさまざまな方法を通じ、社会に貢献することも含みます。……」(同上)

そうか〜。直接民主主義に近いことが実現できるんだ。というか台湾ではもう実現しているということだよね。すごいな。

ここからさきの話は、わたしがこの記事から想像したことなので、台湾の実情がどうなのかということとは関係ないことである。

自分たち一人ひとりが直接意見を表明して、それが政治の舞台で取り上げられたとなると、その問題に対する当事者意識というものを相当持つことになるのではないだろうか。となるとその問題への解決策や解決するための政策、決まったことへの取り組む姿勢や意気込みが、ただ政府の方針として出てきた場合に比べてかなり違ってくるような気がする。自分の意思表明が反映された決まりごととなると、やはり進んで守ろうという気が湧いてくるのではないだろうか。これはなかなか素晴らしいことに思える。

たしかにデジタル技術はそれを可能にする技術だと思える。先日のわたしのブログでは、大学生が、オンラインの授業では、授業が始まってしばらくしてからの授業への脱落率が少なくなったという話を書いた。これも、ひょっとしたらこの一人ひとりの授業を受けているという感覚が、集団の中に埋もれるのではなく、各自が、自分がひとりとして授業を受けている感覚になるのではないか。これも当事者感覚が立ち上がると言ってもいいのではないか。そしてそれは、オンライン授業というデジタル技術のおかげである。

わたしは、民主主義を大切に思う市民として、ぜひともこのデジタル技術を市民のために、民主主義の発展のために使いたい。このブログも考えてみるとその方向に社会をほんの少しは押しているかもしれないと思わなくもない。いや、押したいのだが、押せているかどうかは自信がないということかな。デジタル技術を当たり前のこととして生きいているいまの若い人には特に望みたい。市民のためのデジタル技術をぜひ生み出してほしい。よろしくお願いする。

 

kwsk.hatenablog.jp

 

 

コロナ禍のなかで学生や子どもたちは

わたしは、内田樹(うちだたつる)さんのサイトをときどき覗いて、書かれていることを読むようにしている。もちろん本もたくさん出されているので、本も買って読んでいるのだが。

最近、内田さんの下記の文章を読んで考えさせられた。多くの大学で授業がオンラインになったことは、知り合いの、大学で教えている人から聞いて知ってはいたのだが、内田さんによると、この度のオンライン授業のおかげで、「授業が始まってからしばらくして落ちこぼれていく学生が、これまでの教室に集まっての対面の授業のときに比べて少なくなった」というのである。それは、これまでの教室での授業では学生はひとかたまりのものとして見られていたけれども、オンラインになると、一人ひとりに個別にフォローの目が届くようになったからだというのである。つまり学生が、授業の中で自分の居場所がちゃんとあるということを感じるということなのだろう。詳しくはぜひ内田さんの文章に当たって欲しいのだが、だいたいそういうことだと思って間違ってはいないと思う。

 

 

ところが一方、高校生以下の子どもたちはどうなのであろうか。ニュースによれば、なんと自殺した子どもたちが増えているというではないか。内田さんもそのことについても述べられている。子どもたちにとっては、コロナ禍で友達とつながる楽しみがほぼ全て奪われてしまったのだ。これはかなり深刻なことだろう。

この事実に対して、小学校、中学校、高校はどう対処したらいいのであろうか? すべてをコロナのせいにして、何も対処しないというのでは子どもたちが救われないのではないか。

友達とのつながりの中で得ていた自分の居場所が、コロナ感染防止対策の中で得られなくなったのであれば、それに変わる何かを考えなければいけないのではないだろうか。特効薬はないかもしれないが、授業の中でひとりひとりが自分を認められるような授業をぜひ実現できてほしいと願う。

梅が開花

今日は暖かかった〜。というか昼間はもう暑いと言っていいくらいの陽気であった。いまが2月であることを一瞬忘れてしまったかのような気候であった。

そういう日には、わたしたち人間は家にこもってないでついフラフラと出歩いてみたり上着を脱いで歩いてみたりするわけであるが、植物は歩かないのでかどうかわからないが、花を咲かせるのだろう。最近友人にいただいたばかりの、我が家の梅が一気に花開いてしまった。こんなにいっぺんに開いてしまっていいものなのだろうか。いいのかどうかよくわからないので、ちょっと心配になってしまうのだが、しかしどうすることもできない。ただ見守るだけである。

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梅の花って、いいなあ。春の花といえばまあ桜なのだろうが、その前にひっそりと咲く梅も素敵であると思う。わたしは桜も、道端に咲いていると思わず見上げてしまうし、急いでいない時は桜の木の下でしばらく上を見上げたまま見入ってしまうこともあるくらい好きだが、しかし梅も捨てがたいと思う。

わざわざ送ってくれた友のおかげで、自宅にいながらにして梅が鑑賞できる。なかなかの幸せである。コロナ禍の状況下ではこういう、自宅で楽しむことができるものが求められているのではないだろうか。パーティとかお披露目会など用の華やかな花は売れなくなっているのだろうが、こういう、自宅で楽しむ花は売れているのではないかと予想するが、どうなのだろうか。

地味が見直されているとしたら、それはコロナ禍でのしめたの一つではないだろうか。わたしはいいことだと思う。よかった、よかった。

ご飯とおかずのバランスの良い食べ方

いまも言われているのだろうか。

わたしが子どもの頃は給食を食べるときなどに、「ご飯とおかずをバランスよく食べましょう」と言われた記憶がある。だから今でもときどきそれを思い出して、なんとなくご飯とおかずをまんべんなくできるだけ交互に食べるようにしているような気がする。「三角食べ」という言い方がされていたかもしれない。ご飯と、味噌汁と、おかずの3つを順番に食べると、箸の移動経路が三角形になるというわけだ。うろ覚えで書いてはいけないと思い、ネット検索してみたところ、あったあった。やはり記憶は正しかったようだ。もっとも、いまはこの三角食べ方式は指導されていないらしい。

 

三角食べ - Wikipedia

 

しかし、友人などと一緒に食事に行くと、たまに、おかずばかりせっせと食べて、ご飯がまだ残っているのにおかずが無くなってしまうというひとがいる。そんなときにはちょっと不思議に思ってしまう。おかずばかり先に食べるとそういう結果になるということは当たり前の現象であると思うのだが、どうして、そのひとはそういう未来が想定できないのであろうか。

しかしわたしも、じつを言うとそう偉そうなことは言ってられないのである。わたしの場合、一つだけ例外があるのだ。それは魚である。わたしが不器用だからかもしれないが、魚の身をきれいにとって食べようとすることに気持ちが集中してしまうと、一生懸命魚ばかり食べてしまい、あっと気がつくと、魚は殆どなくなっているのに、茶碗のご飯はほとんど全部残っているという事態が生じるのだ。あ〜またやってしまった、と後悔するのだが、とき既に遅しである。仕方がないので、残っといる味噌汁やお新香をおかずにご飯を食べなくてはならない羽目に陥るのである。こればかりは未だに直らない。困ったもんだ。

人生、何事もバランスよくこなしていきたいもんだと願っているのだけれど、ついつい夢中になってしまうということは起こるものなのだ。そう、そういうものなのだということをちゃんと自覚して生きていくぞ。これからは。バランス、バランス……

 

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