だいたいは日々のなんでもないお話

日々の記録というか、忘備録。本が好きです。

そば か うどん か

2024年2月20日の『東京新聞』の「筆洗」欄にこんな記事が載っていた。

 

東京の荻窪駅近くの立ち食いそば屋に若い女性がひとり入ってきて、食券を店の人に渡すと「そばですかうどんですかと」聞かれ、大抵はここで客は「うどんでおねがいします」とか「そばで!」とか応えるのだが、この女性は「どっちですかねえ。どっちがいいですか」と店のおじさんに尋ね返したそうだ。

 

立ち食いそば屋にはわたしもよく入るけれど、たいていは食券を自動販売機で買って、その食券を店員に渡しながら、「温かいそばで」とか「冷たいうどんでお願いします」とか伝えないといけないので、まあたいていは、食券を買うときには、そばにするかうどんにするかを決めていると思うのだが、この女性は決めていなかったのか、あるいは食券を買ったときには決めていたのだけれど、いざどっちかを伝えないといけないときになって迷ってしまったのか、どうしたのであろう。

 

ここで「筆洗」氏は、

 

勝手な想像をすれば、この人が求めていたのはそばでもうどんでもなかったかもしれない。ひょっとしてほしかったのは誰かとの「会話」ではなかったか。

 

と書いている。う~む、そうだったのかもしれない、とわたしも思う。最近は、こんななんでもないちょっとした会話ができるようなお店がなくなってしまったからなのだろうか。

 

ところで、店の人はそのお客さんの問にこう答えたそうである。

「そばがいいよ」

 

まあ、立ち食い「蕎麦屋」なんだから、やっぱりそなんだろうなあ、そばをすすめるんだろうなあと思った。しかし、わたしだったらここは「うどん」をすすめたいと思う。「うどん」のほうがそばよりもなんとなく温かい感じがしませんか?

それとも、わたしがそう感じるのは、わたしが西の方の出身者だからでしょうかねえ。うどんが好きなんですよ。

つるつるっとくるそばよりも、ずるずるっとくるうどんのほうが温かい気がしませんか。しないかなあ。

『自然農という生きかた』

今週のお題「最近読んでるもの」

 

最近読んで良かった本はこれ。

 

川口由一、辻信一『自然農という生きかた』

ゆっくり堂。23年9月)

 

タイトルの通り、農業を営んでいる川口由一さんのお話を、辻信一さん(アクティビストであり文化人類学者)が聞くという内容の本である。

わたしは農業を営んでいるわけではなく、興味を持っていて田植えや稲刈りをときどき体験したことがあるくらいの、農に関しては全くの素人である。農業といえば、田に一面の稲がなっているもの、畑には整然とキャベツとかネギとかスイカが並んで育っているもの、というくらいの知識くらいしか無い。

しかし、まあできることならば無農薬有機栽培の作物を食したいと願っている。だから「自然農」という言葉に引きつけられたのである。

ではあるが、この本のタイトルになっている「自然農」ということについては、最近になってやっと、「そういう農業の方法というのがあるらしい」ということしか知らなかった。

 

さて、「自然農」とは何かというと、本書にはこう書かれている。

「(自然農の)もっとも重要な基本は、耕さない。…それから肥料はいらない。持ちこまない。それから、草や虫を敵としない」

 

耕さない、肥料は使わない、農薬は使わない、草や虫をやたらと駆除しない、ということである。つまりは、いま行われている農業で、効率よく作物を育てるためにやられていることをことごとくやらないで、土に種を撒いて、そのまま育つのを待つということである。が、もちろん何もしないということではないようである。

川口さんはこう述べている。

「そして、気候に、天候に、土質に、作物の性質に、その場の環境に応じ、沿い、従い、任せてゆきます」

この、「沿い、従い、任せてゆく」というのが、自然農の大事なところというか全てであると言ってもいいような気がするが、この言葉のほんとうの意味は、たぶん実際に土と作物を相手にしてみないとわからないのではないだろうか、とわたしには思える。

では、農に携わっていない人にとっては読んでもしょうがない本かというと決してそんなことはない。すごくいろいろなことを考えさせられる本であることは間違いない。だからタイトルが「自然農」ではなく「自然農という生きかた」となっているのであろうとわたしは思う。「自然農」の話ではあるのだけれど、「生きかた」の本でもあるということである。農業を営んでいない人、あるいは農業を営んでいるけど自然農ではなく、田を耕し、肥料や農薬も使っているという人にとっても、生き方を考えさせられる内容なのである。

 

「はじめに」に、辻さんの書いたこういう一文がある。

「〈本来私たち人間はみな答えを生きるものだと思います。しかしそれがいつの間にか、問いをたてて、答えを生きるかわりに、その問いを生きるようになっていないでしょうか〉

 例えば、環境問題。在来種の種子を絶滅から守ること。絶滅危惧種の生息する生態系を守ること、二酸化炭素の排出を規制する法律をつくること。代替エネルギーを促進すること。原生林を破壊から守ること。それらひとつひとつはどれをとっても深刻な問題であり、重要な課題だ。またどれもがなくてはならない対策であり、立派な運動であるといえる。しかし、と川口は問う。それらの問題をたててその解決に取り組むことが、いつの間にか、〈生きる〉ということのかわりをするようになってはいないか。問題を追いかけることに忙しく、肝心の〈生きる〉ことがおろそかになってはいないか。

〈現代の農民というのもそうですわねえ。かつては農民の生き方そのものであった農が、いつの間にか解決すべき問題としての農業になってしまった。目指す収量、年収という目標に向けて、さまざまな手段を講じる。設計図にとらわれているんです。だから、今の農業では、種蒔きや田植えの時には不安がいっぱいですわねえ。果たして計画通りに芽が出るか、虫が発生しやしないか。未来についての不安が渦巻くんです。しかし本来農民が畑に種を蒔く時には何ら不安はないのです。大安心があるから、楽しいんです。未来にとらわれていない。今を生きている。今の中には過去も未来も切り離されずに入っている。答えを生きるとは、そういうことだと思います〉」

(〈〉の部分の言葉は川口さんの語ったことである)

 

わたしには、これこそ、いま世界中が資本主義の行き過ぎた世の中になったことが原因であると思う。自然農から離れてしまっている今の農業がそういうことになったのも、よりたくさんの収量と利益を求めていることが原因なのではないだろうか。そしてそれは、農の世界に限ったことではないと思う。いまやすべての分野に蔓延してきてしまっているのではないか。

だから、わたしは本書を読んで、こう考えさせられたのである。

問いを追う前に、まずは自分自身が「今を生きる」ことを取り戻すべきではないのか。ちょっと立ち止まって、自分の手許、足許をいま一度見つめ直してみたい、と思わされたのである。

多くの人が本書を読んで、わたしと同じように感じてくださり、いまいちど今を大切にゆっくりといきる生き方について思いを巡らしてくださることを切に願う。そこから今の、問いを追いかけてその追いかけている自分に追いかけられている生を見直してみたい。

そう、本書は、今の生き方を変えるきっかけとなるかもしれない本であると思う。自然農の実践はできなくとも、「自然農という生きかた」は誰にでもできるはずであると思う。そして、それこそがとても豊かで幸せな生なのではないだろうか。

 

目とスマホ

わたしにとってもいまやスマホは眠っているとき以外はほんとに手放せないものと化しているように思う。だがしかし、あんまりスマホを使いすぎていると、目がしょぼしょぼしてくるというか、痛くなってくるというか、そんなような気がしていた。

スマホは目にはよくないんだろうなあとなんとなくは思っていたのであるが、先日、『食べもの通信』23年8月号をよんでいたら、「スマホによる目のトラブルと予防法」(監修 深作眼科院長・深作秀春)という記事があった。「スマホの使い過ぎは目に悪いのはその通りだが、とくに小さな子どもへの影響が気になる」というような記事であった。この記事によると、「スマホの光源がブルーライトであることと、そのブルーライトを近くで見るということが目にとって良くない」ということである。

スマホだけでなく、パソコンのモニターだって目にはよくないそうだ。しかし、わたしの場合、ほんとに、パソコンのモニターを見ている時間も、スマホを見ている時間も、ほんとに多いと思う。もっと減らさなければいけないとは思うのであるが、だがしかしである、何をするにもこの二つが必要なことが多いのである。困った困った。

仕組まれた楽しみ

先日、お昼に天麩羅うどんを食べた。

なぜだか、朝から天麩羅うどんが食べたいと言う気持ちがもくもくと湧いてきたのである。もともとうどんも天麩羅も大好きなので、そういう気持ちが湧いてくることにふしぎはないのであるが、なぜいまなのかはちょっと分からなかった。

が、なんとなくその謎が解けたようである。

思い出したのである。その前日の夜にテレビでうどんのコマーシャルを見たことを。きっとそのせいに違いないと確信した。もともとうどん好きなのでより強く影響を受けたのかもしれないが、テレビCM、すごい。というか、ちょっと怖くなってきた。

わたしはテレビは日本人の平均視聴時間よりも少なくしか見ていないと思うのであるが、コマーシャルを見るのは嫌いではない。一つの情報としてみているつもりであった。しかし今回のうどん欲求醸し出し事件に気が付いて、ちょっと愕然としているのである。わたしもコマーシャルの影響から離れられてはいないのであるということがはっきりしたからである。

 

まあ、考えてみると、こういう影響がはっきりとあるから、企業は高いお金を支払ってテレビなどのコマーシャルをしているのであろう。もしコマーシャルを流してもその商品の売り上げが上がるという結果に結びつかないのであれば、コマーシャルに高いお金を出す企業はなくなるであろう。

わたしは、これまで、じぶんはそんなテレビなどのコマーシャルに影響を受けて消費行動を決めたりなんかしていないぞ、となんとなく思い込んでいたのである。

が、今回のことがあって、決してそんなことはなかったと思い知らされた。これまでもおおいにテレビや新聞、ネット、電車のつり広告、ラジオのコマーシャルなどにかなりつられていたし今もつられているに違いないとほぼ確信した。資本主義の仕組みの中にどっぷりとつかっている自分がいることを。かといって、その仕組みの中から一人だけ出ていくことはたぶんできないであろう。ほんとに、そこここにコマーシャルがあふれていることにもあきれてしまうのである。

だがしかし、今回、その事実を身をもって思い知らされ、自覚できたことはとても良かったと思う。今後は、テレビコマーシャルをジーっと見つめるのはやめようかと思う。今のところそんな対処しか思いつかないのである。

たのしみがまたひとつ

仕事上のことではないのであるが,何年もかけて望んでいた望みがひとつ,本日,成就した。

今度そこへ行くことがあると思う。

これがすごく楽しみなのである。

またひとつ,楽しみがふえたのである。よかった。

また楽しみがひとつ

7月は,わたくしの誕生月なのである。

だいたいはなにか美味しいものを食べるということになっているのである。

楽しみである。

また,楽しみがひとつふえた。うれしい。

おなかいっぱい

いま,わたしはお腹がいっぱいである。

どうしてかというと,きょうは身内でお祝いごとがあって,東京ディズニーランドのそばのホテル,ヒルトン東京ベイでランチ会があったのである。「ビュッフェ」というのかな,料理がたくさん並んでいて,そこにお客が行って自分で食べたい料理をお皿に盛って,それをテーブル席に持ち帰って食べる方式であった。

食べ放題である。だからして,もう帰宅して数時間経つのであるが,わたしは未だにおなかいっぱいなのである。ついつい食べすぎてしまうのである。

料理だけでなく,ケーキや,フルーツ,アイスクリーム,ソフトドリンクなども制限なしである。これは,わたしのような者にはからだに良くない。わかっているのだけれど,ついつい,あれもこれもと手当たり次第に食べたくなってしまって,箸が止まらないのである。まずい。いや,料理は美味しいのだけれど,自分のからだにはまずいことになる。

が,満足であった。十分たのしい時間を過ごしたのである。よかったよかった。こういう時をもつことが,この3年ほどむずかしくなっていたので,なおさら楽しかった。ビュッフェの会場もほぼ満席であったし,ディズニーランドと舞浜駅の間の通路もとっても人が多くて賑わっていた。この日常がまたうれしいのであった。ほんとによかった。みんなで集って美味しいものを食べたり,ディズニーランドなどにみんなで行くという日常がもどってきたのだなあと思うとほんとにうれしい。